日本・日本人論

2017年1月 8日 (日)

将棋・三浦九段の潔白で感じたこと

 時間が経っているのでここで改めて書くまでもないが、将棋ソフト利用の不正が指摘されていた三浦弘行九段の潔白が明らかになった。日本将棋連盟のホームページに、昨年12月26日に行なわれた記者会見での谷川浩司会長の会見要旨が掲載されている。玉虫色の決着ではなく、三浦九段は白であるということだから、裏を返せば将棋連盟の動き方、対応に問題があったということになる。

《(不正を調査していた第三者委員会の)報告書では、三浦九段は不正を行っていないこと、常務会が出場停止処分を取ったのは妥当であること、この二つの結論を頂きました。 常務会の判断が妥当だったとは言え、結果的に三浦九段につらい思いをさせてしまいましたことは本当に申し訳なく思っております》
20161227日付『第三者委員会調査結果を受けて』より一部抜粋)

 今回の騒動は、将棋ファンのみならず一般の人の耳目を集めることになった。同じようなことを感じた人が多いかどうか分からないが、私が今強く感じるのは“冤罪”の恐ろしさである。週刊誌の報道の影響により一時は、三浦九段を「相当怪しい」「黒に近い灰色」と見る空気が醸成されていた気がする。

 疑念を持たれて一方的に竜王戦の出場機会を奪われた三浦九段は、今でも憤懣やるかたない気持ちだろうと想像するが、外野から見て意外に思うのは、将棋連盟が三浦九段を呼び出してヒアリングしたにも関わらず、三浦九段は白だという心証を持つに至らなかったことである。棋士仲間という身内の人たちが本人から直接話を聞いているのに、白という感触を得られなかったのはどうしてだろうと思う。

 主だった棋士が集まり、将棋ソフト利用を疑って三浦九段抜きで議論した際、怪しむ声への同調が重なって、疑念が増幅されていったのかもしれない。その場の空気が今回の“冤罪”を招いたのだとしたら……日本のどのような組織、集団でも起こりうる事象で、大変危険なことだと私には感じられた。

(2017年1月8日記)

2016年11月 2日 (水)

NHKとハロウィン

 10月の28日か29日だったと思うが、夜NHKのニュースを見ていて失望した。ハロウィンを目前に控え、街が盛り上がっている様子を報じていたのだが、それを紹介している女性アナウンサーが黒いマントか何かを羽織って“変身”していたのである。

 街の人がどう盛り上がろうと今は大して気にならないが、ニュースを読むのが仕事のアナウンサーまで着飾る必要はないだろう。視聴者の歓心を買いたいという意図が見えてしまい、またアナウンサー室あたりで「どの衣装にしようかしら」と同僚と盛り上がっていたさままで想像されて、私は不愉快に感じてしまった。

 このニュースでは後半に、「海の向こうもハロウィンで盛り上がっています」とアメリカの映像をご丁寧に流していた。“海の向こうも”の“も”が、これまた私は気に入らない。「ハロウィンはアメリカこそ本場、本家本元でしょうが!」と突っ込みたくなった。日本のハロウィンは、みんなでワイワイ盛り上がるのを好む軽佻浮薄な日本人が、ビジネスにもなるからと積極的に取り込んだだけの話である(東京ディズニーリゾートが火付け役という説も)。

 妻が言うには、今の職場でNHKの受信料を支払っていない人が結構いるらしい。私はNHKをそこそこ観ているから当然支払ってきたが、女性アナウンサーの姿を見てなんだか馬鹿らしく思えてきた。金額は微々たるものだけれど、きっとあの衣装代は契約者の受信料から出ているのでしょうね……。

(2016年11月2日記)

2016年10月 5日 (水)

現場力の強さ?

 昨日の引用に《日本の組織における現場力の強さ》というものがあった。しかし、こちらにはかなり翳りが見られるように思えてならない。私自身、こんな経験をしたことがある。

 ある単発仕事でのこと。二十数人が集まる現場に、定刻に一人が姿を現さなかった。30分ほど遅刻する旨の電話が途中で入ったが、到着したのは集合時間から遅れること1時間10分。二十代らしき女性が、汗ひとつかかずに平然と歩いてきた。遅刻の理由は、「電車に反対方向に乗ってしまい、気付いて途中で引き返したものの、今度は降りる駅を乗り越してしまった」というものだった。

 当然、こういう人が一人出れば、現場の仕事にはしわ寄せが生じる。朝から人繰りがタイトになって、仕事場全体の空気も微妙に悪くなるのだ。なのにこの人は、自分のミスを挽回しようというそぶりすら見せなかった。一貫して受け身のスタンスで、一日仕事をしたのである。

 
思うに、現場が“オール正社員”の時代から、短期契約等で雇用した社外の人たちを積極活用する時代になって、日本企業の現場力はかなり落ちたのではないだろうか。社外の人たちがみな問題ありということではない。が、昔のように現場で働く者が創意工夫しながら協力して仕事に取り組む風土が、色々なバックグラウンド、職業観・勤労観を持つ人たちが加わることによって、失われたように思うのだ。

 今日は少しバイアスのかかった書き方をしたかもしれない。しかし、と思う。数十年前、1時間10分も遅刻して悠然と歩いてくる社員が日本にいただろうか? 寡聞にして私は聞いたことがないのだ。もはや日本企業全般について、現場力をアピールポイントとするのは無理があるように思えてならない。

(2016年10月5日記)

2016年10月 4日 (火)

意思決定能力の弱さ

 今の日本で、解決まで時間がかかりそうな問題として、築地市場の豊洲移転と東京オリンピックの準備が挙げられるだろう。これにより、芸能人・著名人のくだらない不祥事を追いがちなマスコミは暫くの間、真面目な政治・経済・スポーツの分野でネタに事欠かない慈雨に恵まれた、と見るのは穿ちすぎだろうか。

 
移転先の豊洲で土壌汚染対策の盛り土がされていなかった前者の問題では、「責任者を特定できず」という結論が導かれた。東京オリンピックについても、開催費用が当初見込みの4倍にも上ることにつき、誰がいつどう意思決定した結果、このように大きな齟齬が生じたのかよく分からないままである。後から満足な検証すらできないというのは、どう考えたらいいのだろう。

 新味ある見方ではないものの、日本人の意思決定について参考になりそうな記述が最近の本にあったので紹介してみたい。“舞台”は平時ではなく戦時だが、日本人の特徴を巧く捉えている気がする。

《「最強の軍隊はアメリカ人の将軍、ドイツ人の将校、日本人の下士官と兵だ。最弱の軍隊は中国人の将軍、日本人の参謀、ロシア人の将校、イタリア人の兵だ」というジョークがある。これが揶揄するのは、日本の組織における現場力の強さと意思決定能力の弱さである》

(『戦略がすべて』(2016年発行、瀧本哲史著、新潮社))

 第二次世界大戦後、惨敗した日本軍について行われた種々の分析の中にも、同様の指摘があったと記憶している。あれから七十年以上の月日が経ったが、日本人の気質は本質的なところであまり変わっていないということかもしれない。

(2016年10月4日記)

2016年9月28日 (水)

今のリーダーに欠けがちなもの

 日本では今も昔も社会の至るところで、「リーダー不在」を嘆く声が多く聞かれる。これは、形の上でのリーダー(肩書を持ったリーダー)は存在するが、合格点をつけられるリーダーがいない、という意味であろう。私は特別“リーダー論”に関心があるわけではないが、なるほどと思ったことがあった。将棋の大ベテラン、加藤一二三九段の著書で見つけた次のような一文がある。

《「なにかを決めるときは、決めた人間が損をするようにしろ」とは丸田さん(丸田祐三九段)の名言です》

(『求道心 誰も語れない将棋天才列伝』(2016年発行、加藤一二三著、SBクリエイティブ))

 確かに、自分が損をする形で物事を決断するリーダーには、なかなかお目にかかることがない。それが結果として上手くいくというのは、リーダーに私心、私利私欲がないことが周囲に伝わり、求心力が高まって、組織全体があるべき方向に動いていくからなのだろう。

 そういえば、小池百合子・都知事が《東京大改革実現に向け、自ら身を切る覚悟、姿勢を示すため》に、都知事の報酬(月々の報酬とボーナス)を半額にする条例案を提出する意向を明らかにしている。都の山積した問題に係る決断と都知事の報酬は直接リンクしていないが、都知事が自主的に自ら不利益を被る意志を示したことは、好ましいリーダー像の一端を示したと言えるのではないかと思う。

 もっとも、現段階で、小池都知事が本物のリーダーかどうかを判断するのは早計であろう。私腹を肥やさんとした舛添要一前都知事と比較すれば、大抵の行動がプラスに評価できる上、問題となっている東京オリンピックの開催費用および築地市場の豊洲移転を巡るゴタゴタは、過去のミスを明らかにし“正常化”することがこれまた功績となるからである。

 ちょうど今日、小池都知事の下で初となる都議会が開会した。上記の諸問題が解決されたその先において、小池都知事が何をされるか、どういう結果を出すかで、リーダーとしてどうだったのかを判断するのが適当ではないだろうか。自ら報酬半減案を打ち出した今までのところは合格点だと考えているのだが……私は東京都民ではないけれど注目して見ていきたいと思う。

(2016年9月28日記)

2016年9月26日 (月)

ゼロ葬(0葬)を受け入れる考え方

NHK『クローズアップ現代+』「あなたの遺骨はどこへ ~広がる“ゼロ葬”の衝撃~」を観た(9月21日放送)。 “ゼロ葬(0葬)”については、このブログでも今年1月19日(火)に『静かに逝くという選択』で取り上げたことがある。ゼロ葬は、家族が葬儀もせず、遺骨も引き取らない、そして墓も作らない新しい葬送のスタイルである。

 
番組では《“ゼロ葬”の衝撃》という表現をしていたが、私はゼロ葬が一つの風習としてこれから日本で定着していくと予想している。それには、ゼロ葬を肯定的に捉える考え方が必要になるだろうが、肯定派の私は次のようなイメージを持っている。

 まず、地球を列車に見立ててみる。地球に人が住んでいるというのは、人が列車に乗っているということである。地球が有限であるように、列車のスペース(座席数)には限りがある。そして人はいずれ死ぬ。死ぬからこそ、新しい世代の人が空いた座席に座れるのだ。死ぬということは、これから生きていく人たちに席を空けてあげることにほかならない。

 こう見ると、死ぬ時に、自分の座っていた席を綺麗にしてあげるのは尊いことではないか、という考え方が成り立ちうる。お墓を作ったりすれば、譲るはずの座席は新しい人には座りにくいものになるだろう。だから、何も席に残っていないすっきりした形にして、綺麗にして去るのである。これは「他人に迷惑をかけない」という日本人の行動規範との親和性も高い。

 私には時間軸は読めないが、未来の日本人が、「ゼロ葬の一体何が衝撃だったの?」と疑問に思う日が来るような気がする。その頃には、私はこの世にはおらず、ブログもなくなっている可能性が高いだろう。が、それでも全くかまわない。以上述べた、自分を“無”とし次の世代の“有”に繋いでいく美学が、ゼロ葬を肯定する価値観になっていくのではないかと私は考えている。

(2016年9月26日記)

2016年9月 9日 (金)

一周忌と三回忌

 一周忌の法要は、母が父の故郷のお寺に電話をかけてお願いをした。先方は“プロ”だから、母は安心して何でも質問できたわけだが、後で母から話を聞いてストンとは理解しがたいことがあった。

 母は高齢ゆえ、三回忌の法要のために来年も遠く離れた故郷へ帰るのは、体力的にしんどいと伝えた。するとお寺からは、一周忌と三回忌を一緒に執り行うことは可能、と言われたという。そして実際に今回、母のニーズに沿った形で、纏めての法要となった。これは私には不可思議に思えてしまった(母やお寺を批判するつもりは全くない、念のため)。

 母の健康のことを思えば、纏めて一回の法要で済んだのはよかったが、一周忌のタイミングで三回忌も終えられるというのには、どういう理屈があるのだろうかという疑問である。来年に創立10周年を迎える予定の企業が、今年創立10周年記念パーティを開くようなもので、私には違和感がある。

 色々と私なりに考えた結果、次のような見方に落ち着いた。法事の決まり事の多くは、お釈迦さまが説かれた本源的な思想とは異なり、後世の仏教伝道者が作法として定めたもので、日本人の融通無碍な気質も手伝って、時代の流れとともに移り変わってきたものである。そもそもお釈迦さまは教えとして「とらわれるな」と仰っているのだから、複数の法要を纏めてしまっても、仏教の思想とは整合性が取れている、ということだろう。

 
ひょっとすると数十年後、数百年後には、故人の葬儀の場で一周忌の法要を済ませるような時代が来るかもしれないが、そのあたりは将来の日本人次第である。

(2016年9月9日記)

2016年7月29日 (金)

子どもを煙たがる社会

 今住んでいる集合住宅の一階出入り口付近の目立つところに、似たような掲示が二枚貼られていることに気がついた。次のような文章である。

《お願い

 エントランスは共用設備ですが 集団で固まったり お子様を遊ばせて 歩行等の障害や騒音の原因にならぬよう ご配慮お願いします

 皆さまの安全確保のためにも ご協力を お願いします》

《お願い

 お子様の遊びに関するご意見が寄せられております。

 駐輪場付近や通路で遊んでいると、駐輪場利用者や通行する人の迷惑となります。

 ご注意願います。》

 私も以前感じたことがあったが、住人が出入りする場所で、何組もの親子がたむろしているのを邪魔だと思ったことがあった。子ども達は無邪気に遊び、母親達は子どもの様子を気にかけながら、世間話や情報交換をしているという図である。出入り口を通る人の中には、鬱陶しく思った人がいたに違いない。それで管理事務所に苦情の連絡がいったのだろう。そこまでの抗議をしようと思ったことは私にはないが、確かに「近くに公園があるのだから、おしゃべりしたり遊びたいなら、そこに行ってやってくれればいいのに」と頭をよぎったことがある。

 
その一方で、「大した“実害”がないのなら、放っておけばよいではないか」と住人に対して思う自分もいる。昭和40~50年代の頃との比較になってしまうが、昔は近所の大人たちはもっと寛容であった気がする。多少不愉快に思うことがあっても、「子どものことだから」と行動に移さず、我慢する大人が多かったように思う。今は、近所の人に対しても、自己主張するのが当たり前の時代である。

 雑駁な言い方になるが、今の社会は“子どもを煙たがる社会”になってしまった感がある。少子化の進展で子どもの数が減っている状況からすれば、子どもの希少性(希少価値)は高まってしかるべきで、社会から優しくされてもよさそうなものだが、現実は逆の方向に振れている。

 『イギリス、日本、フランス、アメリカ、全部住んでみた私の結論。日本が一番暮らしやすい国でした。』(オティエ由美子著)という本に、興味深い指摘があった。上に述べた日本の昨今の風潮とは全く異なり、欧米は寛容そうである。視点を変えて見れば日本は独特に映る。

《米英仏在住日本人が感じる、数少ない「日本より優れた海外マナー」を挙げておきます。それは乳幼児連れの大人に対し、非常に協力的であること。階段でベビーカーを運ぶ手助けをしたり、電車の中で席をゆずったり、マナーというよりモラルとして、米英仏は子連れに優しい社会です。妊婦や幼い子どもは、社会が守るべきものとして無条件に優先されていると言っていい。子どもがベビーカーの中で大泣きしていようが、母親の態度が「助けてくれて当たり前」的で感謝の念が薄かろうが、助ける側は憤ったり迷惑に感じている風もなく、ほとんど反射的に手を貸す人がほとんどです》

(『イギリス、日本、フランス、アメリカ、全部住んでみた私の結論。日本が一番暮らしやすい国でした。』(2014年発行、オティエ由美子著、リンダブックス))

 日本の社会が子どもを煙たがるようになった背景には、三つの“主義・原則”が跋扈するようになったことがあると思う。一つは個人主義。これは個人第一主義と呼んでもいいが、要は自分の幸せや利益ばかりを追求するあまり、他人からの侵害や干渉を軽微なものでも許さなくなったということである(仮に子どもや親からであっても)。二つ目は自己責任。子どもを持ったのは親が望んだ選択の結果なのだから、社会に迷惑をかけずに自力で育てる責任がある、という考え方になる(社会に安易に頼るのは甘えとされる)。三つ目は民主主義。これは戦後、疑う余地のない普遍的なルールとして社会に浸透しているが、具体的な運用は“多数決”である。物事の是非が多数決で決まるから、少数派である子どもを持つ世帯の意見や主張は通りにくくなる(何か言っても、わがままや自分勝手ととられかねない)。

 以上のようなことを私は考えたが、子どもを煙たがる社会への処方箋を見つけ出せていない。今の社会の空気が健全とは言えないと感じているものの、どうすれば私たちの意識が変わるのか分からないのである。「子どもは将来の社会の担う大切な存在である」と頭では理解している。しかし、“今の自分自身”とはっきりした繋がりが見えない人にとっては……と、すっきりしない気持ちを抱いて、私は少子化日本で生きている。

(2016年7月29日記)

2016年7月11日 (月)

参院選の結果に思う

 昨日実施された参院選において、私は消去法で野党に票を投じた。憲法改正という手続きを経ないで解釈の変更により集団的自衛権の行使の道を拓いた自民党に、今以上の力を持ってほしくないという思いからだった。しかし、結果的に私の票は“死に票”となった。

 自公が順調に議席を確保した結果、憲法改正に前向きな政党の改憲勢力が3分の2を上回ったと伝えられた。《衆参両院で憲法改正案の発議が可能な改憲勢力が形成された》(毎日新聞)と知って、私は「どうにでもなれ」という気になった。二十代の若い世代ほど自公を支持する割合が大きかったという投票行動の傾向も明らかになった。世代的に割を食っている(と私が感じる)若者たちが、その元凶を作ってきた今の与党を支持しているというのは、もはや私の理解を超えている。

 今回の選挙結果で感じたことだが、私が政治に望むものは大変小さくなった。憲法改正で“正式に”自衛隊にお墨付きが与えられ、その活動領域が広く規定されても、私が生きている向こう数十年は、私が戦火に倒れることはなかろう。「戦争には絶対反対」と頑なに主張するのが、今の若い世代(以下、若年世代と呼ぶ)には時代遅れと捉えられているのなら、もう何を言っても仕方がないという気がしてきた。

 割り切って考えれば、若年世代が、自分たちの判断で好ましいと思う社会を作っていけばいいだけのことである。それで日本が将来的に戦争に巻き込まれたとしても、若年世代の判断が招いたものであり、先行世代の責任ではない。憲法改正イコール戦争開始ではない。実際に戦争に踏み切る際は、若年世代が深く関わった別の意思決定が必要であり、その時に賢明な選択をする余地は残されているのだ。

 
私は選挙結果に失望し、以上のようなことを考えていた。人生の後半戦に突入している私は、もうお節介はほどほどにした方がよさそうだ、と思い始めつつある。

(2016年7月11日記)

2016年7月 9日 (土)

非正規嫌い

 僅か十日ほどの間に、信じがたい場面に三度も遭遇した。うち二度は同種のもので、仕事の現場においてバイトの女性が、参加者の出欠をチェックするという単純な業務で間違ったというもの(二つは異なる場所で別々の人だった)。もう一つは、男女の別は分からないが、バイトの人が集合時刻になっても現場に現れず、雇用側が連絡を取ろうと携帯に電話をかけても繋がらなかったというものである。

 アルバイトなど非正規社員に仕事を依頼する側の人(正社員)は、日々こうしたことを経験しているのかと思うと、気の毒な気持ちになる。そして、処遇・待遇面で恵まれていない非正規社員に同情する温かい空気が今の社会で醸成されにくいのは、もっともだという気もしてきた。出欠を取ること、決められた時刻に仕事の現場に行くことに、何一つスキルは要らないのだ。

 昭和時代に遡れば、製造業の生産現場をイメージして、「日本の労働力は勤勉で仕事が丁寧」などと言われることが多かったが、現在非正規社員が多数出入りしているようなところでは、そうした声もなかなか聞かれないのではないかと疑ってしまう。

 自分のことを棚に上げるようで恐縮だが、私はこのところ急速に“非正規嫌い”になりつつある。中には仕事のできる人もいるけれど、かなり酷い人の方がはるかに目立っている感じがする(耳を疑うような話は山ほどある)。安易なレッテル貼りが好ましくないのは理解している。しかし、全体の印象というのはこうして形成されていくのだろう。

(2016年7月9日記)

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