人間関係

2017年2月 9日 (木)

嫌な目

 「嫌な目に遭った」と思った。ある仕事の現場でのこと。仕事仲間は何度も顔を突き合わせたことがあるメンバーばかりだったので、朝気楽に集合場所に向かったのだが、いざ仕事が始まると、その人たちとの会話が殆ど生じないのである。大半の人が、よそよそしい態度をとっているように私には感じられた。

 元々私は自分から積極的に人に話しかける方ではないから、現象面で言えば、私の動き方に変化はなく、その人たちが私に声をかけようとしなかった、というだけである。ただこれは、私には意外だった。あたかも自分が仲間はずれにされたように思えたからだ。結局この日、仕事が終わって解散になるまで、状況は変わらなかった。

 私は「何があったのだろうか?」と考えた。そして、一つ思い当たることに気が付いた。昨年の12月にこの“アルバイト仲間”で忘年会が企画され、殆どの人が参加するなか、私は理由をつけて欠席したのだ。その結果、参加した者はお互いに親しくなり、私は自然と蚊帳の外に置かれるようになったのだろう、と思った。忘年会に参加していない私は、年齢も職業も前職も不詳のままで、かつアルバイト仲間のプライベートに関心がないから無理もない。

 だが、だからといって私は「嫌な目に遭った」ことを後悔していない。これを言うと総スカンを食らうに違いないから口にしないが、「アルバイトの仕事仲間で自腹で親睦を深めて一体何になる?」と思うのだ。社員として働き、年収ウン百万円もらっている仕事なら、飲み会等を通じて人間関係を良好に保つ努力は欠かせないと思う。しかし、私がやっているこのバイトは、年収数十万円にしかならない。しかも、マニュアルとこれまでの勤務経験から、仕事でやるべきことは明確に決まっている。それなのに、「貴重な時間とお金をかけて、人間関係を深めてどうするの?」と思う。時給ベースで収入を得る仕事に不必要に深入りしたくはない  私はそういう価値観、勤労観の持ち主なのだ。

(2017年2月9日記)

2017年1月13日 (金)

Xデー

 今日はどことなく朝から、職場がざわついている感じがあった。その理由が午後それとなく、私にも伝わってきた。責任者の方が、今日を最後に職場を去ることが分かったのだ。

 この責任者は、私を契約社員にすべく動いた張本人である。契約社員成りは急な話だったので、急ぐ理由を一度聞いたことがあったのだが、その時、「私実はもうすぐ辞めるんです」と小声で教えてくれていた。責任者は自分が会社にいるうちに、私の意思確認を早く済ませたかったのだ。

 
そのXデーが今日であった。責任者がいなくなることの影響が、私は気にかかっていた。何しろ、私の契約社員成りの話は、二人の間で、口頭で進められてきたものである。文書でのやりとりは皆無で、後任の社員の人からこの件で話かけられたことは一度もない。“私を呼び込もうと動いた人が途中で去っていく”というのは異常事態で、私には不安材料である。

 夜、責任者と最後の挨拶を交わした際、私を安心させようと「例の件は社内で手続きが進んでいます」と言ってくれたが、口約束で終わることはないのだろうか。私は根無し草になったような気分になった。“入社予定日”(=契約社員として働き始める日)は既に知らされているのだが、その日までに後任の人は本当に私の受入準備を進めてくれるのだろうか、と思う。

 色々書いたが、私がこれからやる(やれる)ことといえば、従前通りただ“待つこと”である。

(2017年1月13日記)

2017年1月11日 (水)

「もう来たくない」

 昨日も残業である(1時間ほどだけだけど)。オフィスを出て、家路を急ぐ同僚5、6人が同じエレベーターに乗り込んだ。皆疲れていて、1階に下りるまで沈黙が続くかと思っていると、一人の男性が皆に聞こえる声で開口一番、こう呟いた。

「もう来たくない」

 彼からは今までも、仕事で大きなストレスを受けている“シグナル”が色々と出ていて、この発言はその延長線上にあるものだった。これを聞いた誰からも、笑いが起きなかった。「何言っているの!」と突っ込む声もなかった。皆、彼の気持ちがよく分かった上で、黙って聞いていたのである。

 派遣社員の仕事というと一般に、単純労働のイメージで、大きなストレスなど生じない印象を持たれるかもしれないが、現実はそう簡単ではない。職場で人と人が接すれば、そこには何かが発生するのであり、その中に摩擦や軋轢があってもおかしくない。あとは、人それぞれ強弱が異なるストレス耐性で、持ちこたえられるかどうかだ。

 ここでは具体的な話を何一つ書けないが、契約社員になるかもしれない私を覆うどんよりした気分も、「もう来たくない」と言った彼と同じところから生じているのである。悩みは……深い。

(2017年1月11日記)

2017年1月 9日 (月)

コミュニケーションの流儀

 昨日は休日出勤をした。休日出勤は義務ではなく、「出られる方は是非……」という呼びかけに応じたものである。業務量が積み上がっているため、人手が多ければ多いほどよいというのが呼びかけた側の考えであろう。朝、平日同様に職場に姿を現した派遣スタッフは、私を含め4人であった。全体の頭数からすれば、多くも少なくもない人数である。

 お昼どき。休日ゆえ、食事ルームは閑散としていた。4人のうち1人は外食に出て、3人だけ中に残った。そのなかの1人(女性)に、「たまには一緒に食べませんか?」と誘われた。「“たまには”じゃなくて、“初めて”が正しいんだけどなー」と心の中でツッコミながら、私は彼女の座るテーブルへ移った。その女性とさして親しくもないもう1人は、同じテーブルの少し離れた席に座って既に食べ始めていた。

 私に声をかけた彼女と、食事をしながら仕事に関する会話をした。お互いに愚痴めいたことも口にしたけど、有意義で楽しかった。しかし10分ほど経って、彼女はスマホを取り出し画面を触り始め、黙ってしまった。家族からの連絡のチェックだろうと思ったが、私はちょっと違和感を覚えた。彼女は突然、一人の世界に籠ってしまったのである。こんなことなら、私はテーブルを移らなければよかったと思った。話をしないのなら、彼女の隣にいる意味がないではないか。

 彼女はスマホの世界から時々戻ってきて、思い出したように私に話しかけてきた。それに反応して私も言葉を発したが、気まぐれにスマホと行き来する彼女のペースに振り回され続けたのである。

 人によってコミュニケーションの流儀は違って当たり前だが、私はこういう昼休みの過ごし方は向いていないことを確信した。話をするのなら、食事をしながらちゃんと会話を楽しみたい。そうならないなら、一人で食べて、その後は昼寝か読書をして過ごしたいと思う。


 
もっとも昨日経験したような、食事ルームがごく少人数のシチュエーションは休日ならではと言え、そうそうないから、あれこれ考えずに平日はまた一人飯に戻るだけである。

(2017年1月9日記)

2017年1月 6日 (金)

聞くまでは訊かないという態度

 年末に姪っ子に会ったと書いた。大学生活のこととか、アルバイトのこととか色々聞いて積極的に会話を広げられなくもなかったが、私は殆どそういうことは敢えてしなかった。というのも、訊かれる彼女が嬉しい、楽しいと感じる話題かどうか、掴めなかったからである。

 おじ-姪の関係に限らず、もっと近い間柄であっても、根掘り葉掘り訊くのは好ましいことではない、と今の私は考えている(若い頃は無遠慮だった)。大学生活が面白くなければ訊かれたくないだろうし、バイトも嫌々行っているなら話をしたくないかもしれない。そういう可能性を考えると、単なる興味本位の安易な質問は人の心を踏みつけかねないと思うからだ。

 訊いていいかどうかの判断の一つのポイントは、その人から“訊いていいよシグナル”が出ているかどうかである。大学の授業について彼女の方から話し始めたら、「少し突っ込んで大学生活のことを訊いてもよさそうだな」という勘が働く。バイトが忙しいと彼女から口にすれば、「どんなバイトなの? どれくらいの頻度で働いてるの?」と訊いても大丈夫だと言えるだろう。

 訊かないという態度は、相手への無関心を必ずしも意味しない。自分の好奇心ばかりを原動力にしたり、ただ間をもたせるために無理やり会話を作るのは、思慮深く成熟した人間でありたいと常々思っている私の価値観に反するのだ。勿論、このことから私自身、他人に訊かれたくないことが沢山あることを言外に(?)匂わせているつもりである。

(2017年1月6日記)

2017年1月 5日 (木)

噂が流れる

 昨日は仕事始めから残業だった(ちょっと珍しいかな)。偶然だと思うが、帰り際、責任者の方と少し立ち話することになった。早速「例の件、派遣会社から連絡はいきましたか?」と聞かれた。

 私は3日の夕方に突然電話が来たことと、主な会話の内容を伝えた。責任者が懸念していたのは、派遣会社が、自分の抱える登録スタッフが他社の契約社員になることに難色を示すことだった。そういうネガティブな感じは受けなかった、と私の印象を伝えた後は、職場の話になった。

 責任者は、今いる既存の契約社員から、私が契約社員になる話があるのかどうか訊かれたという。この発端は、責任者と私が何やら話をしているのを、同僚の派遣社員が見たことにあるらしい。それはそうだろう。責任者に呼ばれて、普段行くことのない部屋に私が入っていったことが一回。勤務態度の真面目な私が三十分も不自然な離席をしたことが一回。周囲にいぶかしく思われても仕方がなかったと思う。

 「ちょっと見られちゃったかもしれませんね」と責任者は口にした(が、懲りた様子はなかった)。私はこの話は一切口外していないので、後ろめたいところはない。ただ、派遣会社の知るところにもなって、もうこの話が同僚の間で広まり始めたのだなと思った(誰も私に訊いてきたりしていないけれど)。

 私は責任者に、今の同僚と一緒の働いている間に契約社員になることに、ちょっと心の引っかかりがある旨を伝えた。すると、責任者曰く、「なかには羨ましいと思う人がいるかもしれませんね。でも(欲しかったのは)一人だけだったので」とあっさりした返事だった。白羽の矢が立ったのは自分だけだということを、ここで初めて知った。そして、これからどういう目で見られようが、自分ではどうしようもないと観念した。人は自分が見たいように見るからである。

(2017年1月5日記)

2017年1月 3日 (火)

“初”言い訳

 今日やるべきことの優先順位トップは、昨日から決めていた。大学時代の部活同期への年始挨拶メールを送ることである。付き合いの長い仲間へは、数年前に年賀状からメールに切り替えていて、今回は12月に体調を崩したこともあり、今日まで送らずじまいだったのだ。

 ところが、文面を作り、十数個のメールアドレス宛ての一斉メールが、なぜか送れない。サーバーの不調か、受け取り拒否のアドレスがあったのか、何か原因があるはずなのだが、技術的なことが分からない私は途方に暮れてしまった。昼食をはさみ、あれこれ試してみたが、何回送信しても、メールはパソコンの“送信トレイ”に残ったままになった。

 休みの貴重な時間をこれ以上費やすのは耐えられない  そう思って方針を切り替えることにした。私に賀状を送ってくれた人に対し、ピンポイントで送ることにしたのだ(一人宛てメールはなぜか問題なく送れた)。すっきりしないが、折角の三が日にイライラしたくないから、ここはもう割り切りである。

 考えてみると、私に賀状もメールも送っていない人については、私が送らなくとも失礼には当たらない(おあいこだから)。送ってくれた人には、かろうじて今日メールしたから、なんとかご容赦頂けるだろう。さらに、私の年始挨拶のこういうスタンスをブログで知った仲間は、「そういうことか」と思うだろうし、ブログを見てない仲間は私への関心がそもそも希薄なはずだから、お互いに挨拶を気にする必要がなさそうである。以上のように、私は自分を納得させた。

 言い訳というのは大抵見苦しいもので、今日のブログも例外ではないが、やむなしとしよう。自分が独り相撲でイライラしている方が、私にはよっぽど耐え難く感じられるからである。

(2017年1月3日記)

2016年12月30日 (金)

手抜きをした年末年始の挨拶

 今月は体調不良、そして仕事の残業が重なって、年賀状を書くのが遅れた。しかも、丁寧に書く余裕が全くなく、目上の人へも住所、宛名書きを手書きではなく印刷で済ませてしまった。受け取った人の中には、「失礼な奴」と思う方が出てくるかもしれないが、こういう場合、多少礼節を欠くことも許して頂きたいと思う。

 大学時代の友人・知人には12月中に、「良いお年を」と一足早くメールで挨拶するつもりだったが、こちらも後手に回り、年が明けてから送ることにした。このブログを見てくれている人は事情を了解してくれると思うが、そういう奇特な人以外は、私からのメールに「いつもより遅いな」と違和感を覚えるかもしれない。

 この年末年始は、無理をせずに自分をいたわることを最優先したいと思う。そう感じる年齢になってきたということである。

(2016年12月30日記)

2016年12月24日 (土)

「イチゴ、どこで買ったの?」

 今年のクリスマスは、妻が家でケーキを作るという。ケーキの生地(スポンジ)を焼き、クリームを泡立てて……という手間のかかる工程である。これは妻の領域だなと私は思い、作るところには全くタッチせずにいた。

 ただ、「イチゴを買ってきて」とお願いされた。クリスマスという季節柄、イチゴは数多く出回っているが、値段はそれなりにする。それにひるんで、近くのスーパーでやや少なめのパックを買って帰った。すると、しばらくして妻がこう言った。

イチゴ、どこで買ったの?」

 私はこの質問の真意を測りかねた。どこのスーパーでもいいではないか。そう思って、「ヨーカドーだけど、それがどうかした?」と聞き返した。次の言葉で、妻が本当に言いたいことが分かった。

イチゴの量が少ないから、どこで買ったのかなと思って」

 迂闊にも私は、ケーキに必要なイチゴの量というものを考えていなかった。ケーキの上に乗せるだけでなく、スポンジの間にも切ったイチゴを挟みこむのだ。ここに至り、自分の買ったイチゴが足りないことをはっきり理解した。

もう一回買いに行くよ」

 私の帰宅を待って妻が作りあげたケーキは、イチゴだけで原価が千円以上もする立派なものに仕上がった(当然、有り難く美味しく頂いた)。振り返ると、妻の受け答えは上手かったように思えてくる。「なんで、もっと多く買ってこなかったの?」と詰問調で言われれば、私はカチンときたり不機嫌になったかもしれない。真意を伏せたぼかした質問というのは、案外人の感情を逆なでしない賢いやり方かも、と思った。

(2016年12月24日記)

2016年12月 9日 (金)

つまるところは人間関係

 仕事の面白さとかやる気は、職場の人間関係に左右されるものだとつくづく感じさせられた。別の部署のある社員が、「〇〇にメールで文句を言ってやったよ」と毒づいているのを耳にした。〇〇さんは最近私が接点を多く持つようになった人だが、私自身、不愉快な思いをされられているのだ(詳しいことを書けないのが残念である)。

 同じ職場でも、以前はこうではなかった。一日の仕事が終わって家路に着く頃には、すっかり頭が切り替わっていて、「疲労はあってもストレスはない」と思えていたのだ。それが最近は雲行きが怪しくなっていて、家の中でも仕事のことを頭に浮かべるようになってきた。原因は、契約社員云々の話ではなく、〇〇さんである。

 はっきり書いてしまうが、時給で働く人間にとっては、職場の人間関係に煩わされて、プライベートの時間でもあれこれ考えてしまうのは、時間と感情の浪費でしかない。なんと馬鹿らしいことかと思う。

 ブログを書くことはかなり時間を要するものである。にも関わらず、自分の気持ちや思ったことを綴っているのは、感情に波が生じている自分を冷静に眺めるためである、と言えるのかもしれない。

(2016年12月9日記)

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