教育

2016年11月19日 (土)

うちのバカ息子

 職場での昼休み、私はよく昼寝をする。といっても、ベッドがあるわけではないから、持参したお弁当を食べた後、自席で突っ伏して寝るだけである(それでも、20分でもウトウトできると身体が楽になる)。

 もっとも、人の声に邪魔されて、眠りに入れないことも稀ではない。先日、まさにそういう日があった。目を閉じて寝ようとしていたところ、背後から女性の会話が聞こえてきた。話題はというと、子どもの教育及び学校についてである。行き交う会話はだいたい小声だったため、完全な文章が頭に入ることはなかったが、一つだけ、一人の女性が語気を強めて口にした発言が正確に耳に届いた。

「うちのバカ息子、全然勉強しないんだよ」

 酷いことを言うもんだなあ、と思った。職場の人間関係はママ友の付き合いとは切り離されているから、自由にものを言いやすい部分はあろうが、これでは子どもが可哀そうである。もしそんな発言を子どもが知ったら、親に激しく反発し軽蔑するに違いない。

 思うに、世の親は子どもの自主的な勉強に期待しすぎではないだろうか。私に言わせれば、子どもが満足に勉強しないのは、(1)親にそもそも知的好奇心が欠けている、(2)親に勉強のノウハウがない(だからやり方を教えられない)、(3)勉強することのメリットやリターンを親が伝えきれていない、(4)子どもが生来勉強の才に恵まれていない、といった要因が複合的に作用した結果であろう。親にもかなり原因があると思うのである。

 その日家に帰った私は、以上の分析は横に置いておいて、「うちのバカ息子、全然勉強しないんだよ」というくだりを中心に妻に報告した。すると妻は、これをただ面白そうに聞き流すことはしなかった。こう反応したのである。

「その人のところへ行って、「お宅のバカ息子にも何かいいところがあるんじゃない?」って言ってあげればよかったのに」

 「言えるかい!」と私は返した。親が自分の子どもを“バカ息子”と呼んでも、他人から“バカ息子”と言われれば、穏やかではいられないに違いない。私は妻の毒舌によって、ハッと気づかされた。“バカ息子”は一種の謙譲表現だったのだ。先の母親は、自分の息子を貶めることで、子どもを持つ周りにいた女性たちを持ち上げて気持ちよくしたのである。

 ここで私は気になり始めた。我が細君は外で「うちのバカ夫が……」と言い放ったリしていないだろうか。私は妻の愛情を信じているが、とにかく毒舌……ゆえに真相は分からないままである(知らない方が幸せか)。

(2016年11月19日記)

2016年11月12日 (土)

「右腕(うわん)」はまずい

 他人の揚げ足を取るような話で恐縮だが、今日夜7時のNHKニュースを見ていて耳を疑った。正確な文章はあいにく覚えていないのだが、アナウンサーが「ドナルド・トランプ氏の右腕として活躍した長女……」というくだりの“右腕”を“うわん”と読んだのだ。

 人間誰でもミスや失敗はするものである。しかし、アナウンサーという職業の性格に鑑みれば、これはちょっとお粗末な恥ずかしいミスと言わざるを得ない。国語力の無さを露呈してしまった格好である。

 こういう事態を防止するために、NHKはこの際、ニュース原稿の漢字すべてにふりがなを付してはどうかと思う。ベテランのアナウンサーは「屈辱的」と感じて受け入れがたいかもしれないが、ミスを限りなくゼロに減らすには、小学生に作文を読ませるようなやり方も仕方あるまい。

 
いや、もしNHKが漢字にふりがなを付すやり方をすでに採用していて、その結果今回のミスが生じたとすれば、ふりがなを付したスタッフが悪いということになる。もっとも、アナウンサーに正しく“みぎうで”と読む力があれば、間違ったふりがなに引きずられることもなかった、と言うこともできる。やはり根本的には、アナウンサーに国語力を高めてもらうしかなさそうである。

(2016年11月12日記)

2016年10月27日 (木)

“キャリアアップ”メール

 日頃お世話になっている登録派遣会社から、先日次のようなメールが送られてきた。

「教育・研修に関する案内です。

 ご存じの通り、昨年の法改正により、派遣社員の方のキャリアアップのための派遣スタッフの方への教育訓練が義務化されました。弊社につきましても、〇〇〇を活用した研修メニューの準備が整いましたのでご案内いたします(以下略)」

 説明が不十分で示達ばかりを意図した文章だが、一読して私はある言葉が気になった。それは“キャリアアップ”である。というのも、私の頭の中に、昔読んだ本の内容が残っていたからである。

《キャリア教育関係者はキャリアアップという言葉を絶対に使わない。キャリアにはアップもダウンもないからだ。この世界ではその言葉を使った瞬間、素人と認定される》

(『「意識高い系」という病 ソーシャル時代にはびこるバカヤロー』(2012年発行、常見陽平著、ベストセラーズ))

 同じ著者が、別の本でもう少し詳しく述べているので、引用してみたい。

《「キャリアアップ」幻想がみんなをおかしくしている。カッコつきにしたのはちゃんと理由があって、キャリア教育にかかわっている者から言わせると、そこにはアップもダウンもなく、すべてが自分が歩んできた轍なので、「キャリアアップ」という言葉はおかしい。この言葉を使っている人がいたら素人だと思っていい》

(『僕たちはガンダムのジムである』(2012年発行、常見陽平著、ヴィレッジブックス))

 同感である。私は数年前に約二十年勤めた企業を退職し、<正社員→個人投資家  派遣社員  自由業>へと稼ぎ方が移行しているが、これをキャリアアップとかキャリアダウンといった形で捉えたことはない。人生において、どのように仕事を位置付けて自分が向き合うかという話だから、アップもダウンもない。しかもそれを、人様に決めつけで言われる筋合いもないのである。

 
私はもう一度、先のメールを読み直してみた。丁寧に案内しているように見えて、《派遣社員の方のキャリアアップのための派遣スタッフの方への教育訓練》とは、相当に“上から目線”だと感じられた。「上から見下ろしつつ、実際は大して意味のない研修をやるんだろうな」という直感が働いたが、この見立てはおそらく間違っていない。長年に亘る社会人経験と社会観察は、こうした時に活きるのである。

(2016年10月27日記)

2016年9月27日 (火)

工作と料理

 子どもの頃は乗り物酔いが酷くて、自動車に乗ることに強い忌避感と劣等感を抱いていた。当時の苦手はそれくらいだったかなと思っていたら、ある本を読んで、別の苦手を思い出した。昔を想起させたのは『創るセンス 工作の思考』(森博嗣著、集英社)である。

 私は小さい時分から、工作には興味がない子であった。男の子が好きそうな飛行機、自動車、船、ロケットといった人工物への関心がなく、そういったものを作りたいという気がなかった。プラモデルもダメだった。包装した箱に描かれた完成形は美しいと子ども心に感じたが、自分で上手く作ることができなかったのである。

 一度、親に連れられて(多分)、ゴム鉄砲か何かを作る工作教室に行った記憶がある。多分作品は完成までたどりついたと思うが、ワクワク感はなかった。「面白くないなあ」と感じたことは、今でもはっきりと覚えている。その点、五歳離れた兄は違った。何かを作るのが苦ではないようだった。当時、家の中に兄のおもちゃが沢山あったが、その多くが壊れたり使い込まれていたのはそのせいだろう。

 私と兄との違いは、実家に帰省した時にはっきりと出る。以前、剥げが目立っていた実家の鉄柵のペンキを塗り直したのは兄である。今年戻った時は、物置小屋の壊れていた鍵が全部取り換えられていて驚いた。ホームセンターまで鍵を買いに行って、自分で付け替えたのだ。その点私は、帰省時に違う汗をかく。伸びた植木を剪定し、庭の雑草を抜いたりする。大自然(?)と人間の生活の調整が私の仕事になっている(庭に出ると蜘蛛や蟻、ミミズはいるし、時に蜂の巣も見つかるから結構大変である)。このように、兄は工作好き、私は生き物(昆虫)好きと対照的なのだ。

 少し話が逸れかけたが、工作の好き嫌いには世代の違いというのがあるかもしれない。『創るセンス 工作の思考』の著者、森博嗣さんは工作が大好きで、今も家の中は作りかけのもので溢れているそうだが、歳は確か私より一回りほど上である。この世代の子ども時代には、まだテレビゲームは存在せず、ラジオや無線機を作るのが難易度の高い子どもの趣味としてあったのだろう。

 昔の苦手意識を思い出しながら『創るセンス 工作の思考』を読み進めていると、救世主的な文章が目の前に現れた。こんなことが書かれてあった。

《料理を作ることも工作だと思う。完成作品はたちまち消費されてしまう、という点が少々特異なだけである》

(『創るセンス 工作の思考』(2010年発行、森博嗣著、集英社))

 私は心の中で、小さくガッツポーズをした。私が全くの工作音痴ではないと証明された瞬間だった。私は男性にしては料理ができる方で、苦にもしていない。それが工作の一つとされたのだ。冷静に考えれば、私は手先は結構器用である(と自負している)。不器用ゆえにいわゆる工作ができないわけではない。

 ここでもう一つ、あることに気付いた。料理という工作には、私の生き物好きがプラスに作用していたのだ。私が鮮魚や肉など、生の食材を扱うのを気持ち悪がらないのは、生き物好きのおかげである(先日、ワタを取り除いて作ったイカめしは最近の代表作だ)。そう考えると、料理とは生き物好きに向いている工作である、と言えるのかもしれない。

(2016年9月27日記)

2016年9月19日 (月)

教育と虐待

 数週間前にこんなことがあった。外で子どもの大声がしたと思ったら、泣き叫ぶ声だった。気になってよく聞くと、母親が叱る声も混じっていた。しかし、声の大きさが尋常ではない。母親が屋外で叱っているに違いなかった。私はベランダに出て親子の姿を探したが、見当たらない。声は広い道路1本と駐車場を隔てた集合住宅の方から聞こえた。200メートルほど離れている距離である。

 問題は、子どもの泣き叫びがなかなか止まなかったことである。「ごめんなさい、ごめんなさい」という子どもの声は明らかに哀願調だったが、母親はキレてしまっているようで、なじる声が執拗に続くのだ。これはもう教育ではなくて虐待ではないか、という思いが沸き上がってきた。

 二人の姿が見えていたら、ただごとではないと私はその場へ向かったかもしれないが、離れた場所の見えない第三者に働きかける気にはならなかった。このように、「どうすることもできないな」とお節介を自重する結論を出したあたりで、ようやく怒鳴り声も泣き声も止んだ。

 私はこの時、数日内に近所で児童虐待の事件が起きても不思議ではないと思った。幸い今に至っても、そういう不幸なニュースは流れていないが、“地域住民の目で子どもの虐待を防止する”という、マスコミが好んで講釈しそうな正論がいかに実践困難か、この日実感した気がした。

(2016年9月19日記)

2016年9月18日 (日)

“薬学部”で中古マンションが買える!?

 人から聞いた話である。「“薬学部”で中古マンションが買える」というので、何を言っているのか突っ込んで聞いたところ、子どもを薬学部に進学させると4千万円かかるという意味であった。恥ずかしながら私は知らなかったのだが、薬学部はかつての四年制から六年制に変わっていて、教育費も増大しているらしい。4千万円とはため息の出る金額である。

 「それはとても元が取れないね」と二人は意見の一致をみたのだが、それ以前に、子どもの教育という投資は自分の代では元が取れないという結論に落ち着いた。親が4千万円のお金を出しても、それに見合ったリターンを得るのは子ども自身である。親はお金を出しっぱなし、という構図ははっきりしている。

 この話を家に帰って妻に話したら、「そんなことも知らないの?」という感じで、追加情報を教えてくれた。薬学部が六年制に移行したことで、それなら医学部と変わらないという見方が広がり、薬学部を目指す学生のうち勉強ができる層は、医学部受験に流れているとのこと。それで、医学部の難関化に拍車がかかっているのかと合点がいった。

 こうなるとさしずめ、「“医学部”で新築マンションが買える」とも言えるのかもしれない。日本の教育費は常軌を逸した水準に来ているように思う(奨学金を利用する学生の増加はそれを物語っている)。冒頭の興味深い話をしてくれた人は、来年4月に二人の子どもが揃って就職すると言っていた。「これで貯金を取り崩さなくて済む」と吐露した時の安堵の表情が印象的であった。

(2016年9月18日記)

2016年8月28日 (日)

もてはやされる学歴とは

 少し前のこと。電車に乗っていて、ある予備校の広告が目にとまった。そして考えさせられた。広告には次のような文章が記されていた。

《日本でもてはやされる学歴が、海外で通じるとは限りません。グローバル社会では、学校名よりも個人の資質。受験だけを目標にせず、視野を広くもって学び、世界で自己実現できる力を育みたい》

 一読して、《日本でもてはやされる学歴》って何だろう、という素朴な疑問が湧いた。私の国語の読解力が足りないせいか、特定の学校(大学)を指した学歴という意味なのか、一般的に学歴は日本でもてはやされているという意味なのか、判然としない。

 もし前者だとすると、東大や京大、早慶といった有名大学の学歴が、海外ではそれほど大きな力を持たないという自明なことを、あえて言ったことになる。これは特に最近顕著な現象というわけではないから、「何を今さら」という感じがする。

 後者だとすると、これまた理解に苦しむところが出てくる。というのも、海外もそれなりに学歴社会だと思われるからである。個人の資質ばかりが平等、公平に評価されるわけではない。ある本に載っていた以下の記述は、そういうことを示唆している。

《シグナルの伝達が大学教育の価値の大きな部分を占めていることに疑いの余地はないだろう。(中略)雇用者は、4年制のエリート大学を出ているという「ブランド価値」のある学位保持者を、そうでない者より優先して雇用する(そして、より高い給与を支払う)傾向にある。

皮肉にも、これは当人の大学の成績にかかわらず当てはまることのようだ。たとえば、ハーバード大学の最下位の学生は、(公平であろうが、なかろうが)、他の多くの大学のトップ学生よりも、多くの仕事に採用される可能性が高い》

(『勝手に選別される世界』(2015年発行、マイケル・ファーティック+デビッド・トンプソン著、ダイヤモンド社)

 先の予備校は、教育方針が学歴至上主義ではないことを訴えたかったのかもしれない。しかし、果たして顧客たる受験生やその親御さんの考えなりニーズはどうだろうか。予備校に通う意義の殆どは、希望大学に合格する学力をつけるため、というのが実態ではないだろうか。私には、何回読んでも冒頭の文章が、“綺麗すぎ”“格好よすぎ”に思えて仕方がなかった。

(2016年8月28日記)

2016年8月20日 (土)

 今朝、何気なくテレビをつけると、リオ五輪のシンクロナイズドスイミングで銅メダルを獲得した日本チームと井村雅代ヘッドコーチがインタビューを受けていた。チームとして3大会ぶりの五輪メダルということもあって、この時ばかりは、昔から非常に厳しい指導で知られる井村コーチも笑顔で画面におさまっていた。

 
東京のテレビ局からは祝福の言葉と色々な質問が行われた。その後、井村コーチに対して「選手への厳しい指導は、愛があるからですよね」という趣旨の、締めとみられる問いが投げかけられた。すると、井村コーチは言下に「愛なんてありませんよ」と完全否定されたのである。その断定調に私は多少驚いたが、おそらく真意は、愛なんてそんな甘っちょろいもので練習しているのではない、メダルに徹底的にこだわってこそ、ということなのだろう。

 テレビ局のアナウンサーは、「指導者には選手に対する愛があって当たり前で、それがメダルに繋がった」という認識だったのではないか。しかし、井村コーチの場合はそうではなかった。私たちは時として、「こう考えているに違いない」と人のことを思い込む傾向があるが、考え方というのは人それぞれだと思っておいた方がいい。マスメディアの限界といえばそれまでだが、アナウンサーの質問はあまりに予定調和的で、底の浅いものだということを、井村コーチの回答は浮き彫りにしたのである。

(2016年8月20日記)

2016年8月 8日 (月)

『広がる“ブラック部活”』を観て(番外編)

 『「死ね!バカ!」これが指導? ~広がる“ブラック部活”~』(クローズアップ現代+)を観て、テーマとは別のところで違和感を覚えたところがあった。それは、コメンテーターとして登場していた名古屋大学大学院准教授Uさんの“金髪”である。

 U
さんは教育者の立場からためになることを仰っていたように思うが、私は染め上げられた金髪が気になって仕方がなかった。一言で言えば、教育を扱う公共の場に金髪がそぐわないと感じたからである。「あなたは古い、時代はもう違う」と言う向きもあろうが、果たしてそうだろうか。学校の入学式で祝辞を述べる校長先生が金髪だとしたら、子ども並びに親御さんはどう感じるだろうか。「就活にはどんな格好で行けばいいですか?」と学生に質問された場合、金髪先生はどうアドバイスするのだろうか。

 面白い話がある。以前このブログで紹介したことのあるエピソードだが、大変興味深いやりとりなので再掲したい。

《茶髪問答がある。就職活動前の大学生が、「なんで黒くしなければならないのですか?」と聞いてくるのだ。反発でなくて、純粋に訳を知りたがる。自分で考えなさい、と突き放したいところだが、このケースは前述の質問魔とは違う。だから私は、

「髪の毛の色がキミのすべてを表すわけではないが、仕事をするときにキミの個性を認めてくれる人もくれない人もいる。特定の人がOKで特定の人がNGというときに、不特定多数を相手に何かを提供する側の者としてどうなのかね?」

と、ていねいに答える。これでたいてい納得する》

(『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話』(2011年発行、沢田健太著、ソフトバンククリエイティブ))

 私はこれと全く同じことを思う。准教授Uさんの“金髪”をNGと思う人がいる時(現に最低一人はいる、この私だ)、金髪は、不特定多数の視聴者に向かって教育に関するメッセージを伝える者の態度としてどうか、と思わずにはいられないのである。

 「人を見かけで判断してはいけない」と言うならば、これは現実から遊離した詭弁に近い。見かけには当人の価値観や嗜好がある程度反映しているし、少なくとも第一印象の段階では、人を見かけで判断するのが現実社会である。また、NHKは金髪を認めるほどまでに柔らかくなったのか、と別の驚きも禁じ得ない。広い教育の世界から、“金髪でない識者”を見つけ出すことが不可能だったとは私には思えない。

 人間は本来自由な存在であり、社会は多様な価値観を重視するものであるべきと私は常々考えてきたが、それでも“ふさわしさ”が求められる場面はあると思っている。テレビで堂々たる金髪を目にした私は、自分の思考がまだ浅いのか、何か足りない視点があるのかと疑ってもいるのだが、そういうことを考えさせる教育効果まで見越して出演されたのならば、准教授Uさんは大した御仁である。

(2016年8月8日記)

2016年8月 7日 (日)

『広がる“ブラック部活”』を観て(後編)

 私は地元の公立中学に入学してすぐ、テニス部に入部した。深い理由はなかったが、父がテニスをたしなんでいた影響が多少あったかもしれない。後は、身体を鍛えたかった。その程度のきっかけである。

 学校のテニスコートは2面しかなく、一方で1年生は大勢いたから、放課後は連日球拾いだった。コートに入って打つ練習ができるようになるまで、数か月かかった気がするが、よく覚えていない。私はこの部活をしんどく思うようになるのだが、その要因は全く別のところにあった。厳しい練習で1年生がどんどん辞めていき、男子は5、6人にまで減ってしまったのだが、私はこの中で友達が一人もできずに孤立していた。人と容易に打ち解けない生来の性質に加え、私以外は全員別の小学校から上がってきていたことも大きかった。彼らは最初から友達だったのである。私は練習合間の休憩時、一人ポツンと日陰に行って、凍らせた水筒片手に水分補給をしていたのを、夏の暑さとともに鮮明に記憶している。

 部活に行っても誰ともしゃべらないのだから、部活に前向きになれる要素がない。私の場合、別に“ブラック部活”の範疇ではないが、孤立した人間を、監督や先輩を含め誰一人として一度もケアしてくれなかったという意味では、冷たさが満ち満ちた環境だったと思う。

 先を急ごう。結局私は、夏休み明け暫くして退部した。監督には退部する旨を伝えに行った気がするが、やりとりを含めこの記憶はおぼろげである。ただ親には、「どうしても辞めたい」と涙を流して説得したように思う。親がどういう反応だったか、こちらも不思議と記憶にない(忘れたい記憶は、残らないように脳ができているのだろう)。

 私には、部活を辞めた決断に一片の後悔も抱いていない。あの時我慢して続けていれば人間不信に陥っただろうし、自尊心もズタズタにされただろうと思うから、あの決断をした自分を今でも褒めてあげたい気持ちである。

 私の経験では、辞めた後の方がよほど大切である。辞めたことで、負け犬根性を身につけてはいけない。漠然とそう感じ、辞めたことの代償を勉強に求めた。得られた時間的、精神的余裕を勉強に振り向け、それは高校受験で報われたのである。

 繰り返しになるが、部活を辞めることは決して敗北ではない。敗北や挫折と受け止めるかどうかは、本人次第である。辞めた後に、自分を立て直し、自分の力をどこに向けていくか、新しく進む道を納得感を持って日々の生活に落とし込んでいけるかどうかにかかっていると思う。部活の実態が“教育”とは呼べないものだと悟ったら、周囲の意見も聞きつつよくよく考えるべきであろう。

(2016年8月7日記)

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