親・実家

2016年12月23日 (金)

母の直してくれたスーツ

 父の一周忌で8月下旬に実家へ帰省した際、母に頼んでいたことがあった。私の着古したスーツの修理である。母は若い頃学校で洋裁を学び、型紙をおこしてゼロから洋服を縫い上げる技術を身に付けていたから、捨てるのが惜しいくたびれたスーツの直しをお願いしてあったのだ。

 実家で持って帰ったスーツを見せた時、母は驚きの表情を隠さなかった。私が長年着続けたせいで、“満身創痍”ともいうべき状態になっていたからである。会社員時代に職場で、「ひどいスーツだ(わ)」と言われたことはないが、ひょっとすると陰では何か言われていたかもしれない。

 先日母から、そのスーツが食べ物と一緒に小包で届いた。母の手により見事に蘇っていた。ズボンの裾は綺麗になり、財布の出し入れで擦り切れていたポケットには新しい生地が当てられ、前身頃(まえみごろ)のささくれもなくなっていた。

 技術があるとはいえ、高齢の母は目が悪くなり、糸を針に通すのにも難儀したという。一時体調を崩したこともあって、修理に取り掛かるのに時間がかかったとも言っていた。心身に負担をかけて申し訳なかったと思う一方、私は大変嬉しい気持ちにもなった。というのも、これで私の秋冬物のスーツは、亡き父の形見のスーツと、母に直してもらったスーツというラインナップになったからである。仕事に向かう時に、親と繋がりのあるスーツを着ていると、見守られている感じがするに違いないと思った。

(2016年12月23日記)

2016年10月31日 (月)

母への手料理

 予定通り、昨日母は退院した。午前中に退院可能と聞いていたので、私は朝9時半には病院に着いていたのだが、それから最後の点滴と医師の診察を経て、荷物を持って母と会計に向かった。電車に乗って帰れないこともないが、母の身体を考えて、病院から家までタクシーを使うことにした。11時前に帰宅。一安心である。

 前の日から、この日の母の食事をどうするか思案していた。母はさすがに退院直後から台所に立つ気はしないだろう、と思ったからである。今回、急遽入院することになったことから、台所には色々な食材が置きっぱなしになっていた。私は大きなごぼうが2本あるのが気になった。母が一人でこれを使い切るのは大変だろうと思い、1本失敬することにした。そして、妻にメールでレシピを聞いて、前日の晩にある料理を作っておいた。きんぴらごぼうである(写真)。

Kinpiragobo

 もう一つ、冷蔵庫で古くなったカボチャ(1/4個)があるのを発見していた。中の種の部分が取り除かれていなかったから、痛みが早くなっていた。そこで我が家では定番になっているカボチャサラダを作った(写真)。これも同じ晩のうちに行なった仕込みである。

Kabotyasarada_2

 退院日の朝は、6時半に起床した。術後に母が、何回かに分けて食べられそうな料理ということで、病院に向かう前、1時間ほどかけてシチューを作った。家になかったお肉とニンジン以外は買ってきておいたので、後はルーの箱に書いてある手順通りに作るだけであった(写真は撮らず)。

 
以上が『母への手料理』の話である。「よくもまあ、作ったわね。手間がかかるのに」が、きんぴらごぼうを見た母の第一声であった。私はとりたてて母を喜ばそうとしたわけではないが、自分にできることをするというのが、高齢になった母への私なりの向き合い方である。

(2016年10月31日記)

2016年10月30日 (日)

黒髪を見て母曰く

 昨日の振り返りから。有り難いことに、母の術後の経過は順調で、面会可能時間ピッタリに病院に着いた私は、ベッドで暇を持て余している(であろう)母と1時間40分ほど話をした。そういえば、手術の後、早々に執刀医から「日曜日には退院できますよ」と言われていた。だから、多少ベッドで横になって過ごさないといけないとしても、母にはそれほど苦痛ということはないだろう。この日私は、新聞を渡してから病院を後にした。

 この日だったか手術前だったか忘れたが、私は母を“試験”した。母に顔を近づけて、「何か気付かない?」と試す質問をしたのだ。私が髪を黒く染めたのに気付くかどうかである。結果はというと、分からなかった。私が正解を知らせると、「あらまあ」といった表情を見せた。そして、こんな言葉を続けた。

「髪を真っ黒にすると、顔が負けるわよ」

 これには驚かされた。私が知らなかったことだった。母は特に説明を加えなかったが、私なりに解釈すると、黒い髪は“若さ”と相性がいいものであって、歳をとって皺を刻んだ顔や、艶を失い小さくなった顔とは不釣り合いになる、ということである。それで、下手をすると不自然に見えるよと母は注意喚起をしたのだ。

 私は、実家の鏡で改めて自分の顔を見つめてみた。幸い、まだ黒髪と顔のバランスに違和感を覚えなかった(もっぱら私の主観だが)。ただ、あと何年“賞味期限”が残っているだろうか、と思った。さすがに十年も経てば、真っ黒は強すぎるような気がするから、茶色を混ぜた方が無難かもしれない……、いや、十年すれば染めるだけの充分な髪が残っているかどうかの方が怪しいか……などと考えた。

 
私をよく知る人は、外見へのこだわりが特にない私がこんなつまらぬことに頭を使っているとはよもや思うまい。それを分かっていながらも、なぜか私のおしゃれ心は尽きないのであった。

(2016年10月30日記)

2016年10月29日 (土)

母の手術

 28日(金)の手術当日、次のように時間は流れた。

 
□10時50分:母の入院する病院へ到着

 □11時~11時半:病院裏手の喫茶室で軽食をとる(母は朝から飲食不可)

 □12時半:母が手術室へ→手術開始

 □14時:手術終了

 私はドラマのワンシーンのように、手術室の前に置かれた椅子に座って待つのかと思いきや、看護師の方に「談話室ででも手術が終わるのを待っていて下さい」と言われた。手術室に消える母を無事を祈りつつ見送った後、勧められた通り談話室へ向かった。そして缶コーヒーを飲みながら本を読んで待っているうちに、ついウトウトしてしまった。不覚にも、手術の終了を告げに来たその看護師に声をかけられて目を覚ました。

 手術室から出てきた母の患部周辺を見せてもらった。紫色に変色していたが、執刀医の説明を聞いて、手術は特に問題なく終わったのだなという感触を得た。それまで、身内の立ち合いについて色々と考えさせられたが、手術が無事に終われば医師への感謝の念が自然に湧いてくる。これにはあえて蓋をする必要はあるまいと思った。

 ベッドのまま病室に戻って、ようやく母の意識が戻った。私の顔を見るなり、「手術はこれから?」と聞いてきた。時間が止まっているうちに、全てが済んだのだ。目覚めた母に向かって私は、「手術後から三時間はベッドで安静にしているようにと言われたよ」と伝えたが、母の表情は案外明るくて安心した。

(2016年10月29日記)

2016年10月28日 (金)

母が入院

 昨日、母が入院した。思わぬ怪我をして手術することになったためである。母から「手術するには身内の人の立ち合いが必要と病院で言われた」という電話があり、私は昨日仕事を終えた後に新幹線で帰省した。仕事の入っていた今日金曜日は休みたい旨、怪我を知った水曜日に職場へ連絡し、予め了解は得ていた(日頃きちんと仕事に取り組んできたのが、こういう場合に活きることを痛感)。

 ネットで調べれば理由が分かるのだろうが、それにしても、身内の者が傍にいないと手術を受けられないというのは、何と面倒なことだろうと思った。誰かがいないと、麻酔を伴う手術の結果、患者が万が一死亡した場合に、病院が後から医療過誤を疑われたり、訴訟沙汰に巻き込まれるのを避けるためではないか、と私には感じられた。

 今回はたまたま、息子兄弟のうち私が対応できたが、もし二人とも都合がつかなかったら、母は手術の日程が決まらずに、病院で宙ぶらりんの状態に何日も置かれることになったのだろう。想像したくない事態である。

 私は、「もう個人の時代なのに」と思う。手術前に患者本人が、手術に関わる諸々のリスクの説明を受け、その存在を認識した上で手術に同意すれば十分だと考える。手術を受けるのは、あくまで患者本人なのだ。当人が全て受け入れているのに執刀してもらえないというのはおかしなことではないか。そんなことを思いながら、母の手術に立ち会うことになった。

(2016年10月28日記)

2016年9月29日 (木)

自生する食材

 27日(火)の『工作と料理』で《鮮魚や肉など、生の食材を扱うのを気持ち悪がらないのは、生き物好きのおかげ》と書いた。さすがに虫は食べる気がしないが、自然の中で育っている植物を採って食べることには全く抵抗がない。

 8月下旬に実家に泊まって庭の手入れをしている時、みょうがが生えているのを発見した。母に聞くと、昔庭に植えた後、勝手に根を伸ばして自生するようになったらしい。高齢の母は庭に出るのが少々億劫になってきているから、私が見つけたというわけである。

 みょうがはクセがあるので嫌いな人が多いようだが、私は大人になって味にも匂いにも慣れてしまった。それで採取したみょうが(写真ご参照)を母にお酢でキュウリと一緒に和えてもらい、早速その日の晩に食したのだった(美味であった)。

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 庭で見つけた食材は他にもある。こちらは採らなかったが、長年の雨水によりできたコンクリートのひび割れ部分に、パセリが生えていた(写真ご参照)。母によると、パセリは自然に種が落ちて広がっていくとのこと。みょうがやパセリなど、食材はスーパーなどで購入するのが都市生活者では当たり前だが、土と光と水があれば自生するものがあるのだ(実家では、大葉(しそ)やニラも育っている)。将来私が庭付きの戸建てに住むことがあれば、こういう食材の調達方法も日常生活に取り入れたいと思う。

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(2016年9月29日記)

2016年9月27日 (火)

工作と料理

 子どもの頃は乗り物酔いが酷くて、自動車に乗ることに強い忌避感と劣等感を抱いていた。当時の苦手はそれくらいだったかなと思っていたら、ある本を読んで、別の苦手を思い出した。昔を想起させたのは『創るセンス 工作の思考』(森博嗣著、集英社)である。

 私は小さい時分から、工作には興味がない子であった。男の子が好きそうな飛行機、自動車、船、ロケットといった人工物への関心がなく、そういったものを作りたいという気がなかった。プラモデルもダメだった。包装した箱に描かれた完成形は美しいと子ども心に感じたが、自分で上手く作ることができなかったのである。

 一度、親に連れられて(多分)、ゴム鉄砲か何かを作る工作教室に行った記憶がある。多分作品は完成までたどりついたと思うが、ワクワク感はなかった。「面白くないなあ」と感じたことは、今でもはっきりと覚えている。その点、五歳離れた兄は違った。何かを作るのが苦ではないようだった。当時、家の中に兄のおもちゃが沢山あったが、その多くが壊れたり使い込まれていたのはそのせいだろう。

 私と兄との違いは、実家に帰省した時にはっきりと出る。以前、剥げが目立っていた実家の鉄柵のペンキを塗り直したのは兄である。今年戻った時は、物置小屋の壊れていた鍵が全部取り換えられていて驚いた。ホームセンターまで鍵を買いに行って、自分で付け替えたのだ。その点私は、帰省時に違う汗をかく。伸びた植木を剪定し、庭の雑草を抜いたりする。大自然(?)と人間の生活の調整が私の仕事になっている(庭に出ると蜘蛛や蟻、ミミズはいるし、時に蜂の巣も見つかるから結構大変である)。このように、兄は工作好き、私は生き物(昆虫)好きと対照的なのだ。

 少し話が逸れかけたが、工作の好き嫌いには世代の違いというのがあるかもしれない。『創るセンス 工作の思考』の著者、森博嗣さんは工作が大好きで、今も家の中は作りかけのもので溢れているそうだが、歳は確か私より一回りほど上である。この世代の子ども時代には、まだテレビゲームは存在せず、ラジオや無線機を作るのが難易度の高い子どもの趣味としてあったのだろう。

 昔の苦手意識を思い出しながら『創るセンス 工作の思考』を読み進めていると、救世主的な文章が目の前に現れた。こんなことが書かれてあった。

《料理を作ることも工作だと思う。完成作品はたちまち消費されてしまう、という点が少々特異なだけである》

(『創るセンス 工作の思考』(2010年発行、森博嗣著、集英社))

 私は心の中で、小さくガッツポーズをした。私が全くの工作音痴ではないと証明された瞬間だった。私は男性にしては料理ができる方で、苦にもしていない。それが工作の一つとされたのだ。冷静に考えれば、私は手先は結構器用である(と自負している)。不器用ゆえにいわゆる工作ができないわけではない。

 ここでもう一つ、あることに気付いた。料理という工作には、私の生き物好きがプラスに作用していたのだ。私が鮮魚や肉など、生の食材を扱うのを気持ち悪がらないのは、生き物好きのおかげである(先日、ワタを取り除いて作ったイカめしは最近の代表作だ)。そう考えると、料理とは生き物好きに向いている工作である、と言えるのかもしれない。

(2016年9月27日記)

2016年9月 9日 (金)

一周忌と三回忌

 一周忌の法要は、母が父の故郷のお寺に電話をかけてお願いをした。先方は“プロ”だから、母は安心して何でも質問できたわけだが、後で母から話を聞いてストンとは理解しがたいことがあった。

 母は高齢ゆえ、三回忌の法要のために来年も遠く離れた故郷へ帰るのは、体力的にしんどいと伝えた。するとお寺からは、一周忌と三回忌を一緒に執り行うことは可能、と言われたという。そして実際に今回、母のニーズに沿った形で、纏めての法要となった。これは私には不可思議に思えてしまった(母やお寺を批判するつもりは全くない、念のため)。

 母の健康のことを思えば、纏めて一回の法要で済んだのはよかったが、一周忌のタイミングで三回忌も終えられるというのには、どういう理屈があるのだろうかという疑問である。来年に創立10周年を迎える予定の企業が、今年創立10周年記念パーティを開くようなもので、私には違和感がある。

 色々と私なりに考えた結果、次のような見方に落ち着いた。法事の決まり事の多くは、お釈迦さまが説かれた本源的な思想とは異なり、後世の仏教伝道者が作法として定めたもので、日本人の融通無碍な気質も手伝って、時代の流れとともに移り変わってきたものである。そもそもお釈迦さまは教えとして「とらわれるな」と仰っているのだから、複数の法要を纏めてしまっても、仏教の思想とは整合性が取れている、ということだろう。

 
ひょっとすると数十年後、数百年後には、故人の葬儀の場で一周忌の法要を済ませるような時代が来るかもしれないが、そのあたりは将来の日本人次第である。

(2016年9月9日記)

2016年9月 8日 (木)

父の故郷

 一周忌には、父の故郷に帰って納骨を済ませた。父が望んでいたところへ収まったのだから、母をはじめ皆安堵したと言っていいだろう。父は生前、故郷に戻って暮らしたいと思っていた時期がどうもあったようだ。今は落ち着ける場所で、ゆったり安らかに眠っているはずである。

 昔、私にとってこの故郷への帰省は、大変つらいものであった。数十年前は道路が十分整備されていなかったため、バスで山を蛇行しながら登り、下っていく必要があったのだが、私は乗り物酔いが酷かった。乗って30分もすると気分が悪くなり、1時間もすればビニール袋の世話にならなければならなかった。回数は記録していないが、一度帰省するたびに、最低一回は吐いたはずである。

 
必ず酔うと分かっていたから、帰省が決まると憂鬱な気分になった。その矛先は父に向かった。「お父さんが車に乗らないから、酔う体質が治らないんだ」と父を腹立たしく思ったことが、何度もある(父は運転免許すら取ろうとしなかった)。口に出して父を責めたことはなかったと思うが、果たしてどうだったか……今となっては確認のしようがない。

 車酔いは大人になって一応おさまったから、今は父の故郷を冷静な目で見ることができる。街並みや住居の中の様子など、昔の記憶がある程度残ってはいたが、今回の一周忌で故郷の地に降り立った際は、何だか不思議な気がした。若かりし父がここに住んでいた頃すでに、のちの私の存在も運命づけられていたのだろうか……などと、答えの見つからない考えごとをした。

(2016年9月8日記)

2016年9月 7日 (水)

父の形見

 父の一周忌の法事から帰る途中、関西の実家へ母を送って数泊した。その時のこと。母が、「これ着ない?」と言って、10着ほど男物のスーツを箪笥から出してきた。全て父のものである。母曰く、もう着る“主人”がいないから、近いうちに処分するつもりだが、その前に一度私に見てほしいという。

 父と私の背丈はほぼ同じだったので、私は着られるだろうというのが母の見立てであった。兄はそもそも寸法が合わないから、私が「ほしい」と言えば、それで決まりである。ちょうど、スーツを少し増やしたいが買うのは勿体ないと考えていた私には、渡りに船の話であった。

 何しろ、父が最後に着てから十年以上経つスーツである。デザインが今の私の趣味に合っているか気になったが、生地の色や状態を見て、3着をその場で“合格”させた。これで、父のものを処分する母の後ろめたさも少しは軽減されたのではないかと勝手ながら思った。

 3着を我が家に持ち帰ると、第2ラウンドが待っていた。妻が、「お父さんのウエストはあなたよりずっと大きかったはず」と釘を刺した。それで妻の前で試着することになったのだが、いざズボンをはいてみると、確かにブカブカである。こぶし4つ以上入るほど余裕があった。私はズボンにベルトを通して、ウエストを絞ってみた。すると、ズボンにやや不自然なタックが入ったが、着られないことはなさそうだという感触を得て、3着とも“最終合格”とした。

 これらのスーツは、厳密には父の“形見”とは言えないかもしれない。購入したお店の札が付いた“新品”状態のものも含まれていたためである。想像の域を出ないが、父は購入して家に持ち帰った際、相当気分が良かったのではないかと思う。というのも、どの上着も内側に苗字が刺繍してあったからである。母がこう言っていたのを思い出した。

「名前を入れてもらうと、既製品のスーツにはない高級感が出るでしょ?お父さんはそういうのが好きだったのよ」

 新品であれ着古したものであれ、この秋からは、私が父の遺したスーツの主人になるのだ。

(2016年9月7日記)

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