企業経営

2016年11月22日 (火)

富の配分の問題

 少し前のことになるが、10月23日に放映されたNHKスペシャル『シリーズ マネー・ワールド  資本主義の未来 第3集 巨大格差 その果てに』は大変興味深かった。格差社会の先進国、米国での話である。ある企業の経営者が実行した先駆的な取り組みのようだったが、その経営者が自らの報酬を大幅に削減し、それを原資に全社員の最低賃金(年収)を7万ドルに引き上げた事例が紹介されていた。テレビ映像に映った社員たちは、経営者の発表に拍手喝采。「これで働くモチベーションがアップする」と明言する社員も見られた。

 普通の企業で、これほどの賃上げは殆ど可能性ゼロだろう。日本で大企業の労使が妥協点を探って実現するベアなんて、今の時代微々たるものである。先の経営者は、業績が好調ならば高額報酬が実現するのが当然とされる米国では、異端視されたり、経営者仲間からは目障りな存在と見られるに違いない。ごく一部の企業における報酬引き下げの動きが社会の空気となって強まってはたまらない、と感じると思われるからだ。

 米国も、そして日本も労働力を安く使って企業の競争力を高めるのは当たり前になっているが、富の配分のあり方としてはどうなのだろうか、と思ってしまう。資本主義社会が定着し、成熟し、行き着いた結果、現在の配分の状況が導かれているとすれば、その歪みに暗澹たる気分になる。

 私は“正解”を持ち合わせているわけではない。先の企業の取り組みにしたって、急な収入増を大歓迎した社員たちもじきに慣れてしまい、「もう増えないのか」と不満をかこつようになるかもしれない。人間の欲望には際限がないからだ。だから、先の企業の実践したことが理想形か問われれば、「分からない」と言わざるをえない。

 
一体この問題、どうすればいいのだろう。かのトマ・ピケティ氏は累進税率のグローバル資本課税というアイデアを出して世界に問うた。が、世界の主要国が自国中心主義を強めている状況に鑑みれば、税のあり方も例外ではなく、世界各国が協調して格差を縮小させる取り組みを強化するというのは、絵空事に思えてならない。

(2016年11月22
日記)

2016年11月 7日 (月)

電通は変わるだろうか?

 電通で起きた新入社員の過労自殺がこのような展開を見せるとは思わなかった。報道によると、《厚生労働省は7日、労働基準法違反の疑いで、広告大手の電通の本社と3支社に一斉に強制捜査に入った。複数の部署で、労使で決めた時間外労働の上限を超えて従業員を働かせていた疑いが強まり、先月の立ち入り調査に続いて強制捜査に着手した》(朝日新聞デジタル)という。

 残業の実態がこれに似た企業は、世の中に数多くあると考えられる。ゆえに、電通は“氷山の一角”であり、今回の捜査は “見せしめ”的という見方が可能だが、電通は誰もが知る大企業ゆえ、産業界、企業社会に注意喚起し改善を促す意義は大きいと言っていいだろう。

 電通では、残業時間の過少申告が広く行われていたと見られている。元社員がテレビのインタビューに応え、「インターネットに勤務実績を入力していた」と証言していたが、これでは過少申告が行われるのも当たり前である。上司や人事部から、「〇月の残業は□時間以内に抑えるように」と指導されれば、業務量がいかに多かろうと、入力時に勤務時間を“調整”せざるをえない。自己申告による勤務実績の入力(という仕組み)が、残業時間の過少申告を生むインフラになっているのである。

 よく考えてみれば、勤務実態を概ね正確に反映した勤務時間の記録は難しいことではない。社内ネットワークにアクセスした時間とビル(オフィス)に入った時間のいずれか早い方を勤務開始時間として、人事部が捉えればよいのである。このようなシステムの構築は技術的に困難ではないはずだから、旧態依然として自己申告に頼っている企業は、「労働基準法に違反する残業を黙認している」と指摘されても反論できないと思われる。

 違法な残業が一部の部署だけで行われていたならば、そこの管理責任者(例えば部長)が一義的にペナルティを課されるべきだが、社内のあちこちで行われていたならば、トップ(社長)にも大きな責任があると言わざるを得ない。「私は法律を破ってまで仕事をしろとは指示してない」などと社長は言いそうだが、これは自己保身を図った詭弁である。社内で常態化した違法な残業を見て見ぬふりしていたとすれば、社長にも大きな責任があると私は考える。

 過去に、社長主導で社員の残業を極力なくそうと取り組み成果を上げた有名な企業がある。吉越浩一郎さんがその社長で、著書『デッドライン仕事術』(2007年発行、祥伝社)によると、《2006年まで社長を務めていたトリンプ・インターナショナル・ジャパンで、原則として残業を禁止していた》という。業種柄、女性社員が多い企業だったという背景もあろうが、トップが本気で陣頭指揮を取れば、残業すらよしとしない企業となりうるという好例である。

 営利目的の企業にとって、法令遵守は業績拡大という目標に劣後して位置付けられがちである。法律を守ったところで、一銭も儲からないからである。しかし、企業は利益を追求する以前に、法を守らなければ社会的存在として認められなくなる。今回の一件は、そういう当たり前のことを改めて世に知らしめたと思う。

 
「社が直面する課題を共に克服し、新しい電通を作り上げていこう」》(毎日新聞)と社員に改革を呼び掛けた電通の社長は、根深い問題を抱えた現状をどうやって変えていくのだろうか。オフィスを夜10時に一斉消灯したところで、<業務量と人員がアンバランス>という残業の裏にある根本的なところは手付かずのままである。残業時間を抑えるには、今の業務をこなすため人員を増やすか、思い切って業務量を減らすといったことをしないとダメであろう。前者はコストアップ要因、後者は減収要因だから、本気で改革すれば今の業績は維持できなくなると考えるのが自然である。そのようなことが果たしてできるのか……社長の胆力が試されているとも言える。

 5年後、10年後の深夜、電通の本社ビルを外から眺めれば、どうなったかが分かるだろう。灯りが煌々とついていれば、電通は変わらなかったということになる。“新しい電通”については、私はかなり懐疑的である。というのも、企業というのは根っこのところでそう簡単に変わるものではない、と思うからである。

(2016年11月7日記)

2016年10月22日 (土)

感じのいいユーモア

 “秋休み”が終了した。一カ月ほどのんびりした日々を過ごしていたのだが、今まで何度か仕事をしている企業から、派遣会社を通じて募集があったのでエントリーをし決まったのだ。今週半ばの出勤日初日、その職場に着いて、私のような者がすんなり採用される理由を実感した。派遣スタッフ向けの30分ほどのコンプライアンス研修が終わると、早速業務開始である。仕事の勝手が分かっているから、マニュアルいらずで即戦力で働いてもらえる、というのは大きいに違いない。

 さて、朝一番、その職場の責任者から入室カードを受け取った時のこと。私が「また今日からよろしくお願いします」と挨拶をした瞬間、笑みを浮かべた責任者の口からこういう言葉が返ってきた。

「はじめまして」

 私はつられて笑うとともに、いたく感心した。これまでに山ほど顔を合わせて仕事をしてきたため、お互いに忘れているはずがないのである。それを、とても丁寧な所作の演技付きで「はじめまして」ときたものだから、私は「また余計なストレスなく仕事ができそうだな」と好感触を持った。

 職場で要職に就いている人には、こういうユーモアセンスが必要ではないかと思う。リーダーは、高い目標を掲げて、生産性の向上と長時間労働のミックスでそれを達成しようとするばかりが能ではない。結局、働いているのは、感情を持った人間なのである。働く者の心に、良い感情が生じるように行動するのは、優れたリーダーに求められる条件と言っていいのかもしれない。

(2016年10月22日記)

2016年10月21日 (金)

仕事を一人に任せる危うさ

 人からこんな話を聞いた。その人は試験監督の仕事をしていたが、受け持った試験教室で、ペアを組んでいた人が休憩を取って外している間、一人で約100人の受験者を担当する時間帯があったという。そしてある時ふと、手を挙げている受験者が遠くに見えたので急行すると、「体調が悪くなったため試験を中断して帰宅したい」とのことだった。

 この人はその受験者をすぐに試験本部に連れていき、大事を取って帰ってもらったため、誰が見てもきちんとした対応をしたわけだが、気になったことがあったらしい。それは、「受験者がどれ位の時間、手を挙げ続けて助けを求めていたかが分からなかった」ということである。受験者は何も不満を口にはしなかったらしいが、何分間も手を挙げっぱなしにしていた可能性もなくはない。

 思うに、たった一人で100人もの人の動きを絶えず見続けるのは困難だという気がする。ペアの人の休憩時には、交代要員がそのポジションに就くべきなのだ。そういう人繰りを試験の運営サイドが考えなかったのは、監督員スタッフの人数を抑えようと、つまりはコストを抑えようとしたためだろう。

 この話が示唆した問題点は、試験監督に限らず、色々な業務で言えることである。「君に任せた」「あなただけが頼り」といった感じで一人の人間に仕事を任せきるのは、格好良く聞こえるところがある上、任された側も意気に感じるかもしれないが、実はとてもリスキーなことである。どんなに“できる”人でも、ヒューマンエラーの可能性はついて回る。そこをよく理解しておかないと、任せたはいいが、サービスレベルの低下、事故の発生、仕事に携わる者の疲弊など、不味い事態を生みかねない。

 そう、今日書いたことは、2年程前にブログで取り上げた外食産業のワンオペの限界にも通じる話である。

(2016年10月21日記)

2016年10月13日 (木)

『電通事件』の教訓はどこへ(その3)

企業人事やキャリアなどを専門とする多くの人が説いていることだが、私は新入社員について、「安易に退職せずに、最低3年間は辞めずに踏ん張った方がいい」と考えてきた。3年位は同じ勤め先で働かないと、会社の仕組みやビジネスの流れを十分理解できないことと、早く辞めても転職先ではそれまでのキャリアを評価してもらいにくいことが、その主な理由である。

 しかし、電通における痛ましい事件をニュースで読むうちに、辞めた方がいいケースも例外的にあると考えるようになった。かつての『電通事件』では新入社員がうつ病に罹り、入社約1年5カ月後に命を絶っている(1991年)が、昨年起きた過労死でも亡くなったのは新入社員で、入社1年目の12月のことだった。これは、“3年の辛抱”などと頑なな考え方に囚われていると、救われなくなってしまう命があるということではないか。

 昨年の事件では亡くなった本人が、仕事が辛いこと、心身に異常をきたしていること、さらには希死念慮が生じていることをツイッターで呟いていたにも関わらず、彼女を知る人たちは助けることができなかった。これは、友人・知人・同僚が責められるべきということではなく、人と人とを繋ぐツイッターという手段にも限界があることを示していると思う。

 今となっては、亡くなってしまった方は帰ってこないため、そこはつらくてやりきれないところだが、私なりに現在働いている若い人たちにお節介ながら伝えておきたい。仕事でどうしても耐えられない時、このままでは持たないと思った時は、辞めてしまって構わない。それも、ギリギリまで頑張るのではなく、立ち直れる力を余した状態で、辞める意思決定をする方が望ましい、と。

 「逃げるが勝ち」とは、昔の人はよく言ったものである。二十代前半の若人にとって先の人生は長いのだから、ちょっと立ち止まってよく考え、逃げて人生の軌道修正を図るのは全く問題ないことだと思う。生きて元気でいるうちは、何とかなるというのが私の実感である。

(2016年10月13日記)

2016年10月12日 (水)

『電通事件』の教訓はどこへ(その2)

 昨日取り上げた電通若手社員の過労死について、もう少し書いておきたい。ブログ執筆後に、ある大学教授が《月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない》とネット上で発言し、多くの批判を浴びたことをニュースで知った。この教授はその後謝罪コメントを投稿しているが、まずは元の発言とそのコメントを掲載してから話を進めたい。

《月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない。自分で起業した人は、それこそ寝袋を会社に持ち込んで、仕事に打ち込んだ時期があるはず。更にプロ意識があれば、上司を説得してでも良い成果を出せるように人的資源を獲得すべく最大の努力をすべき。それでも駄目なら、その会社が組織として機能していないので、転職を考えるべき。また、転職できるプロであるべき長期的に自分への投資を続けるべき。》

《私のコメントで皆様に不快な思いをさせてしまい申しわけございません。ここで、皆様にまとめて返信させて頂きます。

(1)言葉の選び方が乱暴で済みませんでした。

(2)とてもつらい長時間労働を乗り切らないと、会社が危なくなる自分の過去の経験のみで判断し、今の時代にその働き方が適合かの考慮が欠けていました。

以後、自分の専門領域を中心に、言葉を慎重に選び、様々な立場、考え方の方々がいることを念頭において、誠意あるコメントを今まで以上に心がけてまいります。》

 ここまで読んで私は、「この教授は単に火消しを図っただけではないか」と感じた。つまり、《言葉の選び方が乱暴だった》、《誠意あるコメントを今まで以上に心がけてまいります》というのは、主に表現方法についての反省であって、自分の主義主張が間違っていると非を認め考えを改めたわけではないと読めたからである。もしそうならば教授は、社会から批判をいくら浴びようが、正々堂々と受けて立てばいいではないかと私は思う。僅か一日、二日で翻意するような軽い内容を発言したわけではあるまい。

 亡くなった社員の残業時間は、月105時間に上ったと報道されている。労働法や医療関係の本に書かれていることだが、残業時間(時間外労働)が病気発症前1カ月間に月100時間を超える場合や、発症前26カ月間に月80時間を超える場合は、過重な業務負荷と病気(うつ病など)の関連性が強いと認められるという。この基準に照らせば月105時間の残業は、自殺が労災認定されて当然の、酷い労働実態だったと言えるだろう。

 私はこの長時間労働の他にもう一つ、看過してはならない点があったと思う。それはパワハラである。報道されているように、上司からの《「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」》《「目が充血したまま出勤するな」》という叱責や、亡くなったご本人がSNSに残した《男性上司から女子力がないと言われるの、笑いを取るためのいじりだとしても我慢の限界である》という書き込みを裏付ける事実が積み上げられれば、上司からパワハラがあったと見るのが妥当であろう。

 長時間労働だけでも十分酷なことだが、パワハラが加わるとさらに精神的に追い詰められ、病気を発症しやすくなると思う。上司-部下の関係は通常、指揮命令-服従という関係である。この人間関係が悪化していかんともし難くなると、部下は耐えられくなってやがて逃げ場を失う。私には今回の痛ましい事件は、長時間労働とパワハラの複合的な要因によって起きたものと思える(逆に言うと、上司がこの部下に親身になって接していれば、自殺には至らなかった可能性が十分あろう)。なぜ電通ほどのしっかりした大企業で、パワハラが防げなかったのかと疑問に思う(もし企業体質に起因していれば根深い問題である)。

 最後に、長時間労働についてもう一考。人は一体、何時間の労働まで耐えうるのだろうか。極端な例を挙げてみるが、カレーチェーン店『CoCo壱番屋』の創業者・宗次徳二さんはかつて、1日平均15時間半働いていたという。月に換算すれば残業は200時間をゆうに超える計算になる。

1996年は1日も休みをとらず、5637時間働いた。うるう年のため366日で割ると、1日平均15時間半働いていたことになる。日本の労働者の年間実労働時間の平均は1800時間程度だから、およそ3倍の仕事量だった》

(『日本一の変人経営者 CoCo壱番屋を全国チェーン店に育てた男の逆境力』(2009年発行、宗次徳二著、ダイヤモンド社))

 勿論、宗次徳二さんは従業員ではなく経営者の立場であったから、“残業”というのは正確ではない。計算上、実際に仕事をされた時間から法定労働時間(18時間)を引いたものが、それだけの時間にのぼったということである。ただ、人の3倍働いても宗次さんは亡くなったりはしなかった。自らの意思で経営者として働いた場合、こういう超長時間労働が可能な人もいなくはない(稀有な例だと思うが)。

 しかし、企業に雇われて、上司の指揮命令下で仕事に従事する社員はそういう存在ではない。仕事で受ける肉体的な疲労や精神的なストレスは、また違う性質のものなのだ。そして、ストレス耐性には個人差も歴然とある。雇う側、使用する側はそうしたことまで考慮に入れる必要があると思う。今日最後に言いたかったことは、“〇〇時間”という労働時間の数字だけで、働く人間の心身の状態を判断するのもやや短絡的だということである。

(2016年10月12日記)

2016年10月11日 (火)

『電通事件』の教訓はどこへ(その1)

 7日にショッキングなニュースを目にして胸が痛んだ。《電通・東大卒女性社員が過労死「1日2時間しか寝れない」クリスマスに投身自殺》(産経新聞)という見出しであった。この女性(当時24歳)は、業務の増加に伴い残業が増え、うつ病を発症していたとみられるという。別の報道によると、《上司からは「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」「目が充血したまま出勤するな」などと叱責されていたという》(時事通信)。

 言わずもがなだが、電通は日本の広告代理店トップ企業として知られている。一般には、華やかな業種の一流企業というイメージが持たれていると思うが、労働法やメンタルヘルスを扱った本には頻繁に登場する企業でもある。過去にも若手社員が長時間労働でうつ病になり自殺した事件があり、遺族が会社に対し損害賠償を請求する民事訴訟となったことから『電通事件』と呼ばれている。

 
この『電通事件』は最終的には金銭的な和解が成立したが、2000年の最高裁判決の中で使用者の安全配慮義務違反が認定された。会社は社員の健康に配慮する義務があるのに果たさなかったと断じたのである。この判例が契機となって行政が動き、使用者の安全配慮義務を明文化した労働契約法が制定され(2007年)、現在に至っている。

 過労自殺が社会で広く認知され始めたのは、『電通事件』がきっかけだとする見方もある。それほどの事件の当事者でありながら、また同じような構図で社員が自殺に追い込まれたというのは、電通は『電通事件』から何を学び、教訓としてどう社内で活かしてきたのだろうかと思わずにはいられない。皮肉にも今月7日、世界に例を見ない『過労死白書』(厚生労働省『過労死等防止対策白書』)が初めて公表されたが、来年以降の報告書では、電通が再び過労死の歴史に名を刻むことになるかもしれない。

 
今回亡くなった女性について、労働基準監督署が労災認定していたことが報じられているが、《社員の自殺については厳粛に受け止めている。労災認定については内容を把握していないのでコメントは差し控える》(時事通信)という電通の話は、あまりに型どおりで深く反省しているようには私には読めなかった。嫌な言い方に聞こえるかもしれないが、今後もまた犠牲者が出るような気がしてならない。

(2016年10月11日記)

2016年10月 8日 (土)

病院に防犯カメラの設置を

 横浜市の病院で2人の高齢者が中毒死した点滴異物混入事件は、実に恐ろしくて厄介な事件だと思う。未使用の点滴の袋に小さな穴が開け、界面活性剤を含んだものを注入して入院患者を殺害した殺人事件ということだが、手口が分かっているのにまだ容疑者の名前すら挙がっていない。マスコミ報道によると、病院内部に詳しい者、医療器具の扱いに精通した者の犯行ではないかと言われているが、怪しい人物がいたとしても、決定的な証拠(物証)を押さえるのは大変そうである。迷宮入りする可能性もなくはない気がする。

 今回の事件はNHKの『クローズアップ現代+』でも取り上げていたが、犯行の動機を探るという視点が足りない印象を受けた。これは一見不思議に思えたが、不特定多数を対象とする殺人か、特定の人を狙った殺人かがはっきりしないため、切り込むのは時期尚早と番組制作者は判断したのだろう。

 私の推量になってしまうが、亡くなった患者さんへの怨恨といった話は出ていないようであり、また7月以降病院で死亡した患者が増加したことなどから判断すれば、ターゲットは不特定多数だったと考えるのが自然であろう。ここから先は、この“不特定多数”を前提に書き進めることにする。

 犯行の動機は何か。この病院は終末期医療を手掛けている(寝たきりの高齢者が入院している)。そこで想像するに、犯人は回復する見込みのない患者を排除しようとしたのではないか。これは、以前障がい者施設であった殺人事件と同種の動機のように私は感じる。「社会の役に立たない人間は存在価値がない」と見て、切り捨ててよいとする考え方である。こういう恐ろしい思想の持ち主が、医療に携わっているとすれば、何としても捕まえる必要がある。

 病院にとっては明らかにコストアップ要因になるが、番組でも紹介されていた防犯カメラの設置を当たり前に行う時期にきているのかもしれない。病室は言うに及ばず、廊下や医療器具の保管された部屋などでカメラを動かして、後から犯人を追跡できるようにするのである。これは、今回のような犯罪ばかりでなく、患者に対する虐待を発見するツールにもなろう。どの程度、殺人のような犯罪の抑止力になるかは分からないが、事後的に解決できるだけでも設置の意味はあると思う。

 もし今回の事件が迷宮入りすれば、この病院は今後どうなるのだろうか。殺人者が潜伏したり出入りしている病院に命を預けようという人はいないだろう。“患者離れ”で病院経営が立ち行かなくなるリスクというものを考えると、防犯カメラは病院にとり命綱となる投資だとも判断できる。今回の事件から全国の病院が学べることがあるとすれば、そういうことではないかと私は考えている。

(2016年10月8日記)

2016年10月 5日 (水)

現場力の強さ?

 昨日の引用に《日本の組織における現場力の強さ》というものがあった。しかし、こちらにはかなり翳りが見られるように思えてならない。私自身、こんな経験をしたことがある。

 ある単発仕事でのこと。二十数人が集まる現場に、定刻に一人が姿を現さなかった。30分ほど遅刻する旨の電話が途中で入ったが、到着したのは集合時間から遅れること1時間10分。二十代らしき女性が、汗ひとつかかずに平然と歩いてきた。遅刻の理由は、「電車に反対方向に乗ってしまい、気付いて途中で引き返したものの、今度は降りる駅を乗り越してしまった」というものだった。

 当然、こういう人が一人出れば、現場の仕事にはしわ寄せが生じる。朝から人繰りがタイトになって、仕事場全体の空気も微妙に悪くなるのだ。なのにこの人は、自分のミスを挽回しようというそぶりすら見せなかった。一貫して受け身のスタンスで、一日仕事をしたのである。

 
思うに、現場が“オール正社員”の時代から、短期契約等で雇用した社外の人たちを積極活用する時代になって、日本企業の現場力はかなり落ちたのではないだろうか。社外の人たちがみな問題ありということではない。が、昔のように現場で働く者が創意工夫しながら協力して仕事に取り組む風土が、色々なバックグラウンド、職業観・勤労観を持つ人たちが加わることによって、失われたように思うのだ。

 今日は少しバイアスのかかった書き方をしたかもしれない。しかし、と思う。数十年前、1時間10分も遅刻して悠然と歩いてくる社員が日本にいただろうか? 寡聞にして私は聞いたことがないのだ。もはや日本企業全般について、現場力をアピールポイントとするのは無理があるように思えてならない。

(2016年10月5日記)

2016年10月 4日 (火)

意思決定能力の弱さ

 今の日本で、解決まで時間がかかりそうな問題として、築地市場の豊洲移転と東京オリンピックの準備が挙げられるだろう。これにより、芸能人・著名人のくだらない不祥事を追いがちなマスコミは暫くの間、真面目な政治・経済・スポーツの分野でネタに事欠かない慈雨に恵まれた、と見るのは穿ちすぎだろうか。

 
移転先の豊洲で土壌汚染対策の盛り土がされていなかった前者の問題では、「責任者を特定できず」という結論が導かれた。東京オリンピックについても、開催費用が当初見込みの4倍にも上ることにつき、誰がいつどう意思決定した結果、このように大きな齟齬が生じたのかよく分からないままである。後から満足な検証すらできないというのは、どう考えたらいいのだろう。

 新味ある見方ではないものの、日本人の意思決定について参考になりそうな記述が最近の本にあったので紹介してみたい。“舞台”は平時ではなく戦時だが、日本人の特徴を巧く捉えている気がする。

《「最強の軍隊はアメリカ人の将軍、ドイツ人の将校、日本人の下士官と兵だ。最弱の軍隊は中国人の将軍、日本人の参謀、ロシア人の将校、イタリア人の兵だ」というジョークがある。これが揶揄するのは、日本の組織における現場力の強さと意思決定能力の弱さである》

(『戦略がすべて』(2016年発行、瀧本哲史著、新潮社))

 第二次世界大戦後、惨敗した日本軍について行われた種々の分析の中にも、同様の指摘があったと記憶している。あれから七十年以上の月日が経ったが、日本人の気質は本質的なところであまり変わっていないということかもしれない。

(2016年10月4日記)

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