価値観・性格

2017年1月12日 (木)

大きく落ち込んだ日

 今日はもう何もしたくないという気持ちで家路についた。仕事で大きなミスをした。今の職場で初めてである。原因は不注意などではなく、良かれと思ってやったことが結果的に裏目に出たのだが、自分の判断に頼り過ぎたことが、お客様に迷惑と手間をかけることになるミスに繋がった。

 初めは、自分一人で何とか処理できないかと考えた。しかし、隠して後で発覚した場合、言い訳できることは一つもないと思われた。ミスを報告するなら早い方がいい。意を決して、責任者と別の社員一人が座っている机に行き、神妙な面持ちで、反省の弁を交えながらミスの内容を報告した。

 私はかねがね、「派遣社員に責任なんてない」と考えてきた人間である。「仕事の責任は、基本的に社員が負うもの」だと思う。今でもこの考えに変わりはないが、私のミスの尻拭いは社員がやることになる。この日は次のような一文が新たに頭にのぼってきた。

「派遣が社員の仕事を増やしちゃいけないよな」

 ミスをした後私がやったことは、いわゆる“報連相”の一貫であり、特別なことではない。すみやかな報告が緩衝材になったのか、「後の対応はこちらで考えます」と責任者の方は穏やかに言ってくれて、少し気が楽になったが、陰鬱な感じがその後ずっと私の胸に漂い続けた。

 「派遣社員に責任なんてない」と考える私は、案外、責任感の強い人間なのかもしれない。

(2017年1月12日記)

2017年1月 7日 (土)

ボールを手放す

 私は昨日のTo Do Listに、派遣会社への返事を挙げていた。派遣先での直接雇用のオファーをすぐに受けるのは、いかにも「裏交渉していました」と言っているようで感じが悪そうに思える。そこで、1月3日に来た電話への返事を、少し空けて6日にすることにしたのだ。

 職場へ持参したお弁当を昼休みに食べた後、ビルを出て派遣会社に電話を入れた。幸い、この件の担当者は在席だった。もう予想していたのだろう。「今回の話、受けさせて頂きます」という私の意思表示への反応は、「そうですか」というもので、実に淡々としていた。

 今日7日から三連休に入ることから、私は6日のうちに職場の責任者に、派遣会社に返事をした旨報告しておきたいと思った。そのタイミングは、残業の後ぎりぎりにやってきた。入退室用のカードを返却する相手が、昨日はその責任者だった。渡しぎわに小声で、「例の件、派遣会社に返事しました」と囁くと、責任者は黙って頷いた。このやりとりは、誰にも気づかれていないはずである。

 こうして“ボール”は再び私の手を離れた。次のステップは、具体的な手続きということになろうか。今私が準備しなければならないことはない。待っている方が気分的に楽である。

(2017年1月7日記)

2017年1月 6日 (金)

聞くまでは訊かないという態度

 年末に姪っ子に会ったと書いた。大学生活のこととか、アルバイトのこととか色々聞いて積極的に会話を広げられなくもなかったが、私は殆どそういうことは敢えてしなかった。というのも、訊かれる彼女が嬉しい、楽しいと感じる話題かどうか、掴めなかったからである。

 おじ-姪の関係に限らず、もっと近い間柄であっても、根掘り葉掘り訊くのは好ましいことではない、と今の私は考えている(若い頃は無遠慮だった)。大学生活が面白くなければ訊かれたくないだろうし、バイトも嫌々行っているなら話をしたくないかもしれない。そういう可能性を考えると、単なる興味本位の安易な質問は人の心を踏みつけかねないと思うからだ。

 訊いていいかどうかの判断の一つのポイントは、その人から“訊いていいよシグナル”が出ているかどうかである。大学の授業について彼女の方から話し始めたら、「少し突っ込んで大学生活のことを訊いてもよさそうだな」という勘が働く。バイトが忙しいと彼女から口にすれば、「どんなバイトなの? どれくらいの頻度で働いてるの?」と訊いても大丈夫だと言えるだろう。

 訊かないという態度は、相手への無関心を必ずしも意味しない。自分の好奇心ばかりを原動力にしたり、ただ間をもたせるために無理やり会話を作るのは、思慮深く成熟した人間でありたいと常々思っている私の価値観に反するのだ。勿論、このことから私自身、他人に訊かれたくないことが沢山あることを言外に(?)匂わせているつもりである。

(2017年1月6日記)

2016年12月30日 (金)

手抜きをした年末年始の挨拶

 今月は体調不良、そして仕事の残業が重なって、年賀状を書くのが遅れた。しかも、丁寧に書く余裕が全くなく、目上の人へも住所、宛名書きを手書きではなく印刷で済ませてしまった。受け取った人の中には、「失礼な奴」と思う方が出てくるかもしれないが、こういう場合、多少礼節を欠くことも許して頂きたいと思う。

 大学時代の友人・知人には12月中に、「良いお年を」と一足早くメールで挨拶するつもりだったが、こちらも後手に回り、年が明けてから送ることにした。このブログを見てくれている人は事情を了解してくれると思うが、そういう奇特な人以外は、私からのメールに「いつもより遅いな」と違和感を覚えるかもしれない。

 この年末年始は、無理をせずに自分をいたわることを最優先したいと思う。そう感じる年齢になってきたということである。

(2016年12月30日記)

2016年12月27日 (火)

段取りを 台無しにする 物忘れ

 私は“出たとこ勝負”みたいなことが苦手で、できるだけ前もって準備しておきたい性分である。準備というと少々大袈裟なので、“段取り”くらいの表現が丁度いいかもしれない。が、その段取りが空振りに終わった“事件”がこのところ立て続けに起こった。

 ある日、夕食の支度を買って出た私は、妻が食べたがっていた天ぷらを作ることにした。海老、アジ、かき揚げ、さつまいも、カボチャ、肉、ゴーヤなど、揚げる具材を山ほど用意して、次々と熱した油に投じていった。ところが、食べ終わって暫くしてから冷蔵庫を開いて「しまった!」と思った。スーパーで買っておいた、おろしてあるアジの身を入れっぱなしにしていたのだ。天ぷらを揚げている間、なぜか一度もアジのことを思い出さなかった。

 別の日の夕食。妻のと二人分アボカドサラダを作って、お皿にラップをかけて冷蔵庫に入れておいた。食べる直前まで冷やしておくためである。それかメインディッシュの調理に取り掛かって、出来立てを食べたのだが、食後にこのサラダの存在を思い出した。もう別腹用のデザートを食べる気分になっていたので、サラダに戻ることはできなかった。

 “事件”は料理にとどまらない。浴槽を洗った後のこと。ゴミを外のゴミ置き場へ出しに行っている間にお湯を入れると効率的だなと思った。寒い外から戻った時、お風呂に入れるお湯があらかた入っているはず、という寸法である。

 ところが、ゴミ出しを終えて戻っても、一向にお風呂が沸いたことを知らせる音が聞こえない。おかしいなと思って見に行くと、お湯を自動的に入れるボタンをそもそも押していなかった。このヘマにより、効率的どころか、寝る時間まで遅くなったのは言うまでもない。

 以上のようなことが重なって『段取りを 台無しにする 物忘れ』という自虐的な川柳が頭に浮かんだ。そして、さらに心配なことも出てきた。それは、起きたのが単なる物忘れなのか、それとももっと根の深い病気の兆しなのか、ということである。これから見極める必要がありそうだ。

(2016年12月27日記)

2016年12月22日 (木)

今年のクリスマスプレゼント

 今年のクリスマスは三連休と重なっていたので、私はあることを予想した。昨年は24日に職場で、トナカイに扮した社員の方が、クリスマスプレゼントのお菓子を配って回った。私はすっかり慰労されて(?)、しっかりとお菓子を受け取って帰ったのだった。今年のクリスマスは休日……ということは、今年は職場でそんなイベントはないな、と思った。社員の方々も恒例行事の雑務から解放されてホッとしていることだろう、というのが私の見立てであった。

 ところがである。私の読みは見事に外れた。今日の午後、サンタが職場にやってきたのだ。裏方として大量のプレゼントを手配した社員も大変だったに違いないが、とにかく粋なはからいだと思った。配られた菓子袋の中身に大きな意味はない。働く人のことを想っているということが重要なのだ。

 これに関連して、面白いことがあった。六十代とおぼしき女性の同僚がいるのだが、今日はなぜか私が朝から彼女の教育係を仰せつかっていた。彼女は体調が芳しくなかったのか、昼過ぎになると「お昼に帰ればよかった」とこぼすようになっていた。

 
ところが午後三時を過ぎて、サンタからプレゼントを配られると、彼女は表情が明るくなり、「帰らなくてよかった!」と喜びの声をあげたのだ。「これであと数時間、仕事を頑張れる」とも言った。彼女のモチベーションは“モノ”でアップしたのだ。受け取ったのは私と同じ菓子袋だけれど、人によって喜びを感じるポイントはこんなに違うのか、と思わずにはいられなかった。

 帰り際、もう一つ出来事があった。帰り支度をしているロッカールームで、別の同僚の女性がポツリとこう言った。「去年の菓子袋の方が大きかった気がする」

 私はそこにも目がいっていなかった。いや、昨年のプレゼントのことなど忘れてしまっていたのだ。人により、かくも視点は異なるものか。

 プレゼントの中身を気にかけていなかった私は、家に帰って“別人”になった。袋を開けると、私の好きなチョコレートが幾つか入っていたのだ。余計な味付けをしたお菓子は嫌いだが、シンプルなチョコレートはヘルシーでもあり好物である(ああ、都合のいい人間だ)。私はいとも簡単に、“モノ”に心動かされる身と化した。

 いつもと変わらぬ平日になると思われた12月22日木曜日は、このようにクリスマスに彩られて華やかに(?)終わったのだった。

(2016年12月22日記)

2016年12月17日 (土)

頭髪問題

 帰宅して、契約社員になる話の進捗を妻に伝えた。妻は賛成でも反対でもないといった風で、私の話を聞いていた。「なるようにしかならない」と腹を括っている部分は、私と同じかもしれない。

 それにしても、このところ抜け毛が気になる。いや、正確に言えば、抜けた毛が気になるのではなくて、頭に残存している毛の量が気になるのだ。「冬になると抜け毛が増え、春には生えてくる」と思いたいが、体毛の多い自然界の動物のようにいくかどうか、ちょっと期待薄に思えてしまう。

 少し前に髪を黒く染めた影響があるのかな、とも思う(薬剤で頭皮に負荷をかけてしまった?)。あるいは、加齢に抗するべく筋トレをしてきた結果、男性ホルモンが増えて、それが薄毛に繋がっているのか……と疑ったりもする(巷間流布している<男性ホルモン→薄毛>という因果関係はなぜか信じている)。

 そんな心配についても話していると、ずっと静かに聞いていた妻が口を開いた。

「「髪がなくなっても契約社員いけますか?」って、聞いといた方がいいんじゃない?」

 妻が、美意識の高い私の心配事をなんとも思っていないことがよく分かった。


(2016年12月17日記)

2016年12月12日 (月)

ミニマリスト志向

 『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』(2015年発行、佐々木典士著、ワニブックス)という本を読んだ。もう“ミニマリスト”という言葉は珍しくないので、改めて意味を説明する必要もないだろう。私は“ミニマリスト”と呼ばれる人が、実際にどういう生活をしているのかに興味があった。

 ある程度予想はしていたが、こういう人たちは本当にモノを最小限しか持っていないのだなと感心した。著者の佐々木典士さんはテレビさえも持っていないのだ。持たない生活を押し進めた先に生じる感情は、今あるモノへの感謝であるという。これは素晴らしい心境の変化だなあと思った。

 私はモノへの執着が薄い方だが、モノを溜め込んだ生活からは抜け出せていない。あまり買わないようにはしているが、かといって今持っているモノに感謝する気持ちはそんなに起きてこないのだ(やはり、なにかとモノへの不満が生じることの方が多い)。モノを多く保有することで、不健全な心になっているとしたら、今当たり前と思っている生活には改善の余地があるということではないか。

 佐々木典士さんは三十代半ばで独身というから、私は単純に真似できないが、それでも《モノを最小限にした結果、25㎡の家から20㎡の家に引っ越し、家賃は2万円下がった》という別の“成果”も知ると、自分にもやれることがあるはず、という気になる。妻も、我が家の持ち物の多さは理解しており、「少し減らさなきゃ」と毎年、一年を振り返る12月には口にするのだ。折角良い本に出会ったのだから、頷くばかりでなく、妻とともに実践していかねばと強く感じている。

(2016年12月12日記)

2016年12月 7日 (水)

自分の考えは他者の考え、バイアスか本質か

 今、ある企業から打診されている契約社員について、ネットで色々と調べてみた(便利な世の中になったものである)。当然ながら、その企業及び契約社員という働き方につき、好意的な意見とネガティブな見方が混在していたが、そのなかに私の目を惹いたものがあった。次のようなくだりである。

「契約社員という名のバイト」

 これを見て私は、かつて外食産業でクローズアップされた“名ばかり管理職”を思い出した。これに倣うと、「契約社員という名のバイト」は私の解釈で嚙み砕けば、‘契約社員という、会社の一員という体裁を見せておきながら、実態は安い賃金で働かせる使い捨て可の労働力’という意味になる。もし私を誘っている企業の契約社員が「契約社員という名のバイト」に当てはまるならば、これから契約社員となる身にとってはモチベーションが下がる情報である。

 冷静に見ればこれは面白いと思うのだが、私はネットに書き込まれたこうした見方を知るまでは、契約社員を先入観を持って見てはいなかった。殆ど予見なく捉えていたと言っていい。それが、外部の視点によって影響されることになった。これが本日のお題の前段『自分の考えは他者の考え』である。私たちはバイアスをかけられやすい社会に生きていることを痛感する。

 一方で、今回の例で言えば、私はネガティブなバイアスをかけられたのではなく、本質に触れたのだと言えるのかもしれない、とも思う。「契約社員なんて、ただ安くこき使われるだけ。アルバイトとなんら変わらないではないか」という感想を、仕事を通して実際に抱くようになれば、あの言葉は本質を突いていたなぁと未来の私は振り返ることになるだろう。お題の後段『バイアスか本質か』―はそんなことを考えて出てきたものである。

(2016年12月7日記)

2016年11月20日 (日)

男の年齢

 寒い冬の出勤は気が滅入る。そこで少しでも気分をよくするために、このところ音楽を聴きながら会社に行くことが多い。ある日の朝のこと。職場のドアの入り口で、社員が入室カードを持ってきてくれるのを待っていると、同僚の女性(おそらく私より年上)が出社してきた。お互いに「おはようございます」と型どおりの挨拶を済ませたところ、私がイヤホンを耳から外したのを見て、こんなことを聞いてきた。

「何の音楽を聴いてるんですか?」

 私は一瞬戸惑った。具体的にミュージシャン名を答えても相手が知らない可能性が高いと思った上、この質問にはある狙いが隠されているように感じられたからだ。それはずばり、私の年齢への探りである。どんな音楽を聴いているかで、その人の年齢をある程度推測できるように思われた。私はそこを曖昧にすべく、「80年代、90年代の洋楽ですよ」と幅を持たせた返事をした。

 周囲が自分の年齢を知りたがっていると思うなんて、自意識過剰だと思われた向きがあるかもしれない。しかし、女性が圧倒的に多い職場に身を置く立場からすれば、同僚の男性の年齢は、一つの関心事、おしゃべりのネタになっていると私は感じている。女性が抱く「あの人(男性)は一体どういう人?」という疑問の入り口に、“年齢”が存在するのである。

 断続的に2年以上通っている今の職場で、私は誰にも年齢を明かしたことがない。口にしても何のメリットもない歳になったのだから、あえて言う必要性を感じないし、独身じゃないから女性陣の年齢にも特段興味はない。「お互いに歳を知る必要はないよね(もうそういう歳だよね)」というところで、ひとり心の中でバランスをとっているつもりである。

(2016年11月20日記)

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