« 2016年9月 | トップページ | 2016年11月 »

2016年10月

2016年10月31日 (月)

母への手料理

 予定通り、昨日母は退院した。午前中に退院可能と聞いていたので、私は朝9時半には病院に着いていたのだが、それから最後の点滴と医師の診察を経て、荷物を持って母と会計に向かった。電車に乗って帰れないこともないが、母の身体を考えて、病院から家までタクシーを使うことにした。11時前に帰宅。一安心である。

 前の日から、この日の母の食事をどうするか思案していた。母はさすがに退院直後から台所に立つ気はしないだろう、と思ったからである。今回、急遽入院することになったことから、台所には色々な食材が置きっぱなしになっていた。私は大きなごぼうが2本あるのが気になった。母が一人でこれを使い切るのは大変だろうと思い、1本失敬することにした。そして、妻にメールでレシピを聞いて、前日の晩にある料理を作っておいた。きんぴらごぼうである(写真)。

Kinpiragobo

 もう一つ、冷蔵庫で古くなったカボチャ(1/4個)があるのを発見していた。中の種の部分が取り除かれていなかったから、痛みが早くなっていた。そこで我が家では定番になっているカボチャサラダを作った(写真)。これも同じ晩のうちに行なった仕込みである。

Kabotyasarada_2

 退院日の朝は、6時半に起床した。術後に母が、何回かに分けて食べられそうな料理ということで、病院に向かう前、1時間ほどかけてシチューを作った。家になかったお肉とニンジン以外は買ってきておいたので、後はルーの箱に書いてある手順通りに作るだけであった(写真は撮らず)。

 
以上が『母への手料理』の話である。「よくもまあ、作ったわね。手間がかかるのに」が、きんぴらごぼうを見た母の第一声であった。私はとりたてて母を喜ばそうとしたわけではないが、自分にできることをするというのが、高齢になった母への私なりの向き合い方である。

(2016年10月31日記)

2016年10月30日 (日)

黒髪を見て母曰く

 昨日の振り返りから。有り難いことに、母の術後の経過は順調で、面会可能時間ピッタリに病院に着いた私は、ベッドで暇を持て余している(であろう)母と1時間40分ほど話をした。そういえば、手術の後、早々に執刀医から「日曜日には退院できますよ」と言われていた。だから、多少ベッドで横になって過ごさないといけないとしても、母にはそれほど苦痛ということはないだろう。この日私は、新聞を渡してから病院を後にした。

 この日だったか手術前だったか忘れたが、私は母を“試験”した。母に顔を近づけて、「何か気付かない?」と試す質問をしたのだ。私が髪を黒く染めたのに気付くかどうかである。結果はというと、分からなかった。私が正解を知らせると、「あらまあ」といった表情を見せた。そして、こんな言葉を続けた。

「髪を真っ黒にすると、顔が負けるわよ」

 これには驚かされた。私が知らなかったことだった。母は特に説明を加えなかったが、私なりに解釈すると、黒い髪は“若さ”と相性がいいものであって、歳をとって皺を刻んだ顔や、艶を失い小さくなった顔とは不釣り合いになる、ということである。それで、下手をすると不自然に見えるよと母は注意喚起をしたのだ。

 私は、実家の鏡で改めて自分の顔を見つめてみた。幸い、まだ黒髪と顔のバランスに違和感を覚えなかった(もっぱら私の主観だが)。ただ、あと何年“賞味期限”が残っているだろうか、と思った。さすがに十年も経てば、真っ黒は強すぎるような気がするから、茶色を混ぜた方が無難かもしれない……、いや、十年すれば染めるだけの充分な髪が残っているかどうかの方が怪しいか……などと考えた。

 
私をよく知る人は、外見へのこだわりが特にない私がこんなつまらぬことに頭を使っているとはよもや思うまい。それを分かっていながらも、なぜか私のおしゃれ心は尽きないのであった。

(2016年10月30日記)

2016年10月29日 (土)

母の手術

 28日(金)の手術当日、次のように時間は流れた。

 
□10時50分:母の入院する病院へ到着

 □11時~11時半:病院裏手の喫茶室で軽食をとる(母は朝から飲食不可)

 □12時半:母が手術室へ→手術開始

 □14時:手術終了

 私はドラマのワンシーンのように、手術室の前に置かれた椅子に座って待つのかと思いきや、看護師の方に「談話室ででも手術が終わるのを待っていて下さい」と言われた。手術室に消える母を無事を祈りつつ見送った後、勧められた通り談話室へ向かった。そして缶コーヒーを飲みながら本を読んで待っているうちに、ついウトウトしてしまった。不覚にも、手術の終了を告げに来たその看護師に声をかけられて目を覚ました。

 手術室から出てきた母の患部周辺を見せてもらった。紫色に変色していたが、執刀医の説明を聞いて、手術は特に問題なく終わったのだなという感触を得た。それまで、身内の立ち合いについて色々と考えさせられたが、手術が無事に終われば医師への感謝の念が自然に湧いてくる。これにはあえて蓋をする必要はあるまいと思った。

 ベッドのまま病室に戻って、ようやく母の意識が戻った。私の顔を見るなり、「手術はこれから?」と聞いてきた。時間が止まっているうちに、全てが済んだのだ。目覚めた母に向かって私は、「手術後から三時間はベッドで安静にしているようにと言われたよ」と伝えたが、母の表情は案外明るくて安心した。

(2016年10月29日記)

2016年10月28日 (金)

母が入院

 昨日、母が入院した。思わぬ怪我をして手術することになったためである。母から「手術するには身内の人の立ち合いが必要と病院で言われた」という電話があり、私は昨日仕事を終えた後に新幹線で帰省した。仕事の入っていた今日金曜日は休みたい旨、怪我を知った水曜日に職場へ連絡し、予め了解は得ていた(日頃きちんと仕事に取り組んできたのが、こういう場合に活きることを痛感)。

 ネットで調べれば理由が分かるのだろうが、それにしても、身内の者が傍にいないと手術を受けられないというのは、何と面倒なことだろうと思った。誰かがいないと、麻酔を伴う手術の結果、患者が万が一死亡した場合に、病院が後から医療過誤を疑われたり、訴訟沙汰に巻き込まれるのを避けるためではないか、と私には感じられた。

 今回はたまたま、息子兄弟のうち私が対応できたが、もし二人とも都合がつかなかったら、母は手術の日程が決まらずに、病院で宙ぶらりんの状態に何日も置かれることになったのだろう。想像したくない事態である。

 私は、「もう個人の時代なのに」と思う。手術前に患者本人が、手術に関わる諸々のリスクの説明を受け、その存在を認識した上で手術に同意すれば十分だと考える。手術を受けるのは、あくまで患者本人なのだ。当人が全て受け入れているのに執刀してもらえないというのはおかしなことではないか。そんなことを思いながら、母の手術に立ち会うことになった。

(2016年10月28日記)

2016年10月27日 (木)

“キャリアアップ”メール

 日頃お世話になっている登録派遣会社から、先日次のようなメールが送られてきた。

「教育・研修に関する案内です。

 ご存じの通り、昨年の法改正により、派遣社員の方のキャリアアップのための派遣スタッフの方への教育訓練が義務化されました。弊社につきましても、〇〇〇を活用した研修メニューの準備が整いましたのでご案内いたします(以下略)」

 説明が不十分で示達ばかりを意図した文章だが、一読して私はある言葉が気になった。それは“キャリアアップ”である。というのも、私の頭の中に、昔読んだ本の内容が残っていたからである。

《キャリア教育関係者はキャリアアップという言葉を絶対に使わない。キャリアにはアップもダウンもないからだ。この世界ではその言葉を使った瞬間、素人と認定される》

(『「意識高い系」という病 ソーシャル時代にはびこるバカヤロー』(2012年発行、常見陽平著、ベストセラーズ))

 同じ著者が、別の本でもう少し詳しく述べているので、引用してみたい。

《「キャリアアップ」幻想がみんなをおかしくしている。カッコつきにしたのはちゃんと理由があって、キャリア教育にかかわっている者から言わせると、そこにはアップもダウンもなく、すべてが自分が歩んできた轍なので、「キャリアアップ」という言葉はおかしい。この言葉を使っている人がいたら素人だと思っていい》

(『僕たちはガンダムのジムである』(2012年発行、常見陽平著、ヴィレッジブックス))

 同感である。私は数年前に約二十年勤めた企業を退職し、<正社員→個人投資家  派遣社員  自由業>へと稼ぎ方が移行しているが、これをキャリアアップとかキャリアダウンといった形で捉えたことはない。人生において、どのように仕事を位置付けて自分が向き合うかという話だから、アップもダウンもない。しかもそれを、人様に決めつけで言われる筋合いもないのである。

 
私はもう一度、先のメールを読み直してみた。丁寧に案内しているように見えて、《派遣社員の方のキャリアアップのための派遣スタッフの方への教育訓練》とは、相当に“上から目線”だと感じられた。「上から見下ろしつつ、実際は大して意味のない研修をやるんだろうな」という直感が働いたが、この見立てはおそらく間違っていない。長年に亘る社会人経験と社会観察は、こうした時に活きるのである。

(2016年10月27日記)

2016年10月26日 (水)

最近見られる格差の拡大

 私は新聞を読んでいないから、今の経済情勢がどういう論調で分析されているのか知らないが、最近「格差はこういう形でも広がるのだな」と感じている。まず、夏の終わりからずっと、野菜の値段が高止まりしている。夏の天候不順や台風の影響のようだが、私のように、食材を素材から仕入れて料理をする人間からすれば、これは家計にマイナスである。特に葉物野菜が以前の倍前後に上がっていて、健康を考えてサラダを作るのにもちょっと躊躇してしまうほどだ。

 一方、今月上旬に、興味深いメールが登録派遣会社から届いた。《101日より最低賃金が改訂となりました。つきましては、弊社の時給も下記の通りに改訂となりますのでご連絡いたします》とあった。自分について調べると、時給が自動的に30円増える計算であった。喜んでいい話ではある。しかし、上記の野菜類の値上がりを考えると、この小さな実入りの増加は相殺されるか足りない感じがした。

 
ネットで経済ニュースを見ると、株価が上昇している。昨日の日経平均の終値は17,365円と、一時よりかなり高くなっている。これをチャンスと見て、利益確定に走る投資家は少なくないと考えられる。株式等を“持てる者”は、時給数十円のアップとは縁のない世界で、資産の増加に笑みを浮かべているというのが今の状況だろう。例えば数百万円規模で資産額が増えれば、野菜の値上がりはカバーした上でお釣りが十分来る。これが“持たざる者”との違いである。

 今の経済情勢はまた変化するに違いないが、現在という時間の断面で切って見れば、以上のような形で格差の拡大が見られる気がするのだ。しかし、そのことを声高に指摘しても、社会には殆ど響かないだろう。なぜなら、“今の自分自身の境遇は自己責任に依るもの”といった社会通念が根強くあるからである。

(2016年10月26日記)

2016年10月25日 (火)

電車内での化粧の是非

 今どきこんなことが、と思うことを経験した。普段は使わない都内の私鉄に乗った時のこと。車両の中に設置されたモニターを見ていると、「車内での化粧はご遠慮ください」とマナーを訴えるCMが流れてきた。これには正直びっくりした。

 はっきり時期は明示できないが、私の記憶では、電車の中で女性が化粧をするのはみっともないと年長者や世の男性が眉をひそめたのは、昭和の時代に遡る(おそらくは私が子どもの頃)。それが今ではもう、すっかり見慣れた光景になっているので、私には逆にこのマナー啓発が新鮮に映った。いや、違和感を覚えたと言った方がいいかもしれない。

 いつの頃からか私は、「自分の知らない人たちの前で化粧をしたって、迷惑をかけているわけでもないし、別にいいではないか。どう思われても赤の他人だし」と考えるようになった。私たちが常識、社会規範と呼ぶものやマナーには絶対的な正解がなく、時代の変化とともに中身は変わっていくものだから、そこは柔軟に捉えてもいいのではないか、という考え方が裏にある。だからこそ、時代に逆行した感じさえしたマナー案内に目を疑ったのだ。

 
私は化粧をしないが(そんな奇癖はないが)、夏の暑い日にはたまに車中でネクタイを締めることがある。ネクタイ着用が必要になる仕事の現場に着くまでは、首回りを楽にしたまま過ごしたいためだが、これもこの電鉄会社の基準からすれば、化粧に準じたみっともない行為と位置付けられ、マナー違反とされそうな気がする。

 なぜこの私鉄の女性利用客が、「このマナー案内はお節介です」とか「要りません」と言わないのか私には不思議に思える。ひょっとすると、心中違和感を覚えている女性は多いが、スマホの操作で忙しくてさほど気にかけていないのかもしれない。

 全くの想像だが、この私鉄は、マナーの良い乗客を増やすことで、運営する路線の評判を高め、さらには沿線地域の価値向上まで視野に入れて、マナー啓発に取り組んでいるのかもしれない。それは企業の深謀遠慮として理解できるが、それでも、と思う。むしろ「車内での飲食はご遠慮ください」と飲食しないマナーを徹底した方がよいのではないか。飲食は車両が汚れる恐れがあるため、乗客の理解をはるかに得やすいと思うのだが。

 長くなったが、冒頭書いたように、私はこの私鉄にたまたま乗った一利用客にすぎない。だから、私が以上のようなことを言うこと自体が“お節介”と言われればそれまでである。「地域のことは、その地域の人が決める」という当たり前の考え方に引き戻されることになりそうだ。

(2016年10月25日記)

2016年10月24日 (月)

職場での黒髪への反応

 人の顔は結構覚えられているものだと思った。黒髪をなびかせて(?)出勤した初日、職場での反応は“無風”というわけにはいかなかった。朝礼直前に職場へ飛び込んできた女性社員は、私を見るなり開口一番、「髪!髪!」と言って私の頭を指さした。

 別の女性の年配スタッフは、「髪染めたんですねー。若くなりましたね」とお世辞っぽいことを言ってくれたが、なんだか素直には喜べなかった。その前にロッカールームで、私の隣で荷物をしまっていた他部署の女性に、ギョッとした反応をされたせいかもしれない。別にかつらを被ったわけではない。多少白かったものが黒くなっただけなのに、である。

 帰宅してすぐ妻に、1カ月以上間があいていたのに、染めたのがばれて驚かれた旨を報告した。すると妻は、意外なことを口にしたのだった。

「そっかなぁー。あたしは全然違和感なかったけどなー。別にどうこうってなかったなー」

 私は、「旦那の顔、もっとよく見ろよー!!」と思わず突っ込んだ。一般に、女性が髪を短くしたり色を入れて変化をつけても、夫は気付かないことが多いようだ。それで世の奥様方はしばしば、何も言わない(言えない)夫の感度の低さを嘆くのだろう。女性なのに我が妻の感度は大丈夫だろうか……と少々心配である。

(2016年10月24日記)

2016年10月23日 (日)

ボブ・ディラン氏は悪くない

 メディア報道によると、ノーベル文学賞に選ばれた米国の歌手ボブ・ディラン氏が受賞に何の反応も示さず、選考委員会であるスウェーデン・アカデミーはディラン氏に連絡を取れない状態が続いている。そのため、スウェーデン・アカデミーの委員からは、「無礼で傲慢だ」という声があがっているという。

 この非難の弁を知って私は、「選考委員自身に突き刺さる言葉だなあ」と思った。そもそも文学の世界に身を置いていなかったディラン氏にとって、ノーベル文学賞受賞は予想だにしなかったことだろう。スウェーデン・アカデミーに「選んでください」とか「受賞を心待ちにしています」といった態度で待っていたものではないはずで、選考する側が“片思い”で贈った賞と言っていい。

 それを、相手にされなかったからといって、不快感を示したり非難のコメントを公にするのは、ちょっと筋違いという気がする。ディラン氏は内心、「文学賞は自分が受ける賞ではない」と考えているかもしれないし、「そもそも(権威主義的な)ノーベル賞には関心がない」という価値観をお持ちかもしれない。ディラン氏が沈黙している理由も分からないのに、勝手に責めるというのはいかにもおかしい。

 ゆえに「無礼で傲慢だ」は、ディラン氏を選んだ委員自身に跳ね返ってくる言葉であると私は思う。つまり、そういう発言をした人こそ「無礼で傲慢」であることを示しているのだ。こういう人は、「ディラン氏はノーベル文学賞を侮辱した」とでも言いたいのだろうが、ディラン氏に自分がメンツを潰されたため、我慢ならなくなった、というのが真実ではないだろうか。予定されている受賞式にディラン氏が姿を見せず、メダルと賞状が宙に浮いてしまうお寒い光景を想像すると、“メンツを潰されたから”というのが、コメントの背景にあるように思えてならない。

(2016年10月23日記)

2016年10月22日 (土)

感じのいいユーモア

 “秋休み”が終了した。一カ月ほどのんびりした日々を過ごしていたのだが、今まで何度か仕事をしている企業から、派遣会社を通じて募集があったのでエントリーをし決まったのだ。今週半ばの出勤日初日、その職場に着いて、私のような者がすんなり採用される理由を実感した。派遣スタッフ向けの30分ほどのコンプライアンス研修が終わると、早速業務開始である。仕事の勝手が分かっているから、マニュアルいらずで即戦力で働いてもらえる、というのは大きいに違いない。

 さて、朝一番、その職場の責任者から入室カードを受け取った時のこと。私が「また今日からよろしくお願いします」と挨拶をした瞬間、笑みを浮かべた責任者の口からこういう言葉が返ってきた。

「はじめまして」

 私はつられて笑うとともに、いたく感心した。これまでに山ほど顔を合わせて仕事をしてきたため、お互いに忘れているはずがないのである。それを、とても丁寧な所作の演技付きで「はじめまして」ときたものだから、私は「また余計なストレスなく仕事ができそうだな」と好感触を持った。

 職場で要職に就いている人には、こういうユーモアセンスが必要ではないかと思う。リーダーは、高い目標を掲げて、生産性の向上と長時間労働のミックスでそれを達成しようとするばかりが能ではない。結局、働いているのは、感情を持った人間なのである。働く者の心に、良い感情が生じるように行動するのは、優れたリーダーに求められる条件と言っていいのかもしれない。

(2016年10月22日記)

2016年10月21日 (金)

仕事を一人に任せる危うさ

 人からこんな話を聞いた。その人は試験監督の仕事をしていたが、受け持った試験教室で、ペアを組んでいた人が休憩を取って外している間、一人で約100人の受験者を担当する時間帯があったという。そしてある時ふと、手を挙げている受験者が遠くに見えたので急行すると、「体調が悪くなったため試験を中断して帰宅したい」とのことだった。

 この人はその受験者をすぐに試験本部に連れていき、大事を取って帰ってもらったため、誰が見てもきちんとした対応をしたわけだが、気になったことがあったらしい。それは、「受験者がどれ位の時間、手を挙げ続けて助けを求めていたかが分からなかった」ということである。受験者は何も不満を口にはしなかったらしいが、何分間も手を挙げっぱなしにしていた可能性もなくはない。

 思うに、たった一人で100人もの人の動きを絶えず見続けるのは困難だという気がする。ペアの人の休憩時には、交代要員がそのポジションに就くべきなのだ。そういう人繰りを試験の運営サイドが考えなかったのは、監督員スタッフの人数を抑えようと、つまりはコストを抑えようとしたためだろう。

 この話が示唆した問題点は、試験監督に限らず、色々な業務で言えることである。「君に任せた」「あなただけが頼り」といった感じで一人の人間に仕事を任せきるのは、格好良く聞こえるところがある上、任された側も意気に感じるかもしれないが、実はとてもリスキーなことである。どんなに“できる”人でも、ヒューマンエラーの可能性はついて回る。そこをよく理解しておかないと、任せたはいいが、サービスレベルの低下、事故の発生、仕事に携わる者の疲弊など、不味い事態を生みかねない。

 そう、今日書いたことは、2年程前にブログで取り上げた外食産業のワンオペの限界にも通じる話である。

(2016年10月21日記)

2016年10月20日 (木)

ブログアクセス急増の理由

 今月11日あたりから、ブログへのアクセスが急増している。絶対数は少ないけれどいつもの2~3倍のアクセス数で、このブログを始めて1千日以上経つが、こんなことは初めてである。私のブログは世に知られていないはずなので、何かきっかけがあるに違いなかった。

 
暫くの間、最近投稿した『『電通事件』は風化したのか(その1~3)』が読まれたのかと思っていた。というのも、電通の新入社員の過労死が大きく報道され、社会の注目を集めているからである。その後、自分のなかでモヤモヤが解消しなかったため、普段はやらないことだが、どのページが読まれているのかアクセスを調べてみることにした。すると、意外なことが分かった。二年以上前に遡る次のブログが原因だったのである。

『急がれる将棋界の不正防止ルール策定』(2014531日)

minato-kashiwamoto.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-b5a9.html

 将棋ファンや将棋に関心のある人が、三浦九段の不正疑惑が持ち上がってからネットを検索し、私の過去のブログに行き着いたのだろう。改めて読み直してみて、今も通用する内容になっていると自分には感じられてホッとした。これでまたブログをマイペースで書き続けられそうで、一安心である。

(2016年10月20日記)

2016年10月19日 (水)

黒髪中年男子の感想

 昨日、髪を染めに行った。「カラーはどれにしますか?」と微妙に加減が異なる色のリストを店員さんに見せられた。私は以前から、茶色は自分に似合わないと思っていたので、少し考えて無難な黒(ブラック)を選んだ。茶色が全く入っていない黒である。

 あとは店員さんに導かれるまま、髪をカットされ、頭に液体をかけられ、20分ほど待って、頭を洗ってもらって“出来上がり”となった。家に帰ってから鏡を見て、「黒だけどちょっと違うなあ」と思ってしまった。何というか、黒色のスプレーを髪にかけて着色した感じなのだ。黒髪が本来持っているナチュラルさや艶(つや)は、残念ながらそこにはなかった(当たり前だけれど)。

 別の美容院に髪を切りに行っている妻から、携帯にメールが入っていた。「変身を楽しみにしてます」と書かれてあった。変身もさることながら、妻は見た目が変わることで私の気分が少しでも良くなれば(テンションが上がれば)……と思っていたようである(帰宅して私を見た妻の感想は「いいんじゃない」と、あっさりしたものだった)。

 折角変身したので、妻にデジカメで顔写真を撮ってもらった。私は、「もし不慮の事故で死んだら、この写真を遺影に使ってね」と半分冗談で妻にお願いをした。あと二、三か月もすれば、頭には一斉に白いものが混じってくるに違いない。再び染めるかどうかは、その頃またじっくりと考えてみるつもりである。

2016年10月19日記)

2016年10月18日 (火)

将棋・三浦九段が不正疑惑を改めて否定

 今晩7時、テレビのチャンネルをNHKに合わせたところ、ニュースの見出しに将棋・三浦弘行九段の不正疑惑が載っていたので、何が起こったのかと思って見続けることにした。対局に将棋ソフトを利用した疑惑はもう何日か前からメディア報道されているため、何か新たな情報がないと、わざわざNHKがニュースに取り上げるはずがない。

 その新たな情報というのは、三浦九段がNHKの単独インタビューに応じ、カメラに向かって話した内容にあった。重要と思われたポイントは大きく二点。まずは、三浦九段が「疑惑を持たれたままでは指せない」として竜王戦を辞退する旨を将棋連盟に伝えた事実はない、とした点である。「竜王戦は将棋界の最高棋戦であり、それを自分から辞退することはありえない」という趣旨の説明を三浦九段は加えた。もしそうならば、三浦九段が辞退の意向を示したとする将棋連盟の見解とは食い違うことになる。

 二つ目は、三浦九段が自身の所有するパソコン4台とスマホのアプリ一覧を撮った画像を、無実を証明する証拠として将棋連盟に提出したことを明らかにした点である。そもそも「スマホに将棋ソフトは搭載していない」とも語っていたので、これはかなりの“強手”といっていいだろう。

 パソコンとスマホの精査により“白”が確定すれば、三浦九段にとって大変喜ばしいことである。が、一点目に挙げた見解の相違は、どう決着するにせよ、相当なしこりを残しそうな予感がする。というのも、もし三浦九段の言っていることが真実だとすれば、将棋連盟が三浦九段を竜王戦に出場させないストーリーを予め作って、意図的にその方向に誘導したと推測できるようになるからである。不正を行っていない無実の棋士が、竜王戦出場の権利を剥奪されたことになるわけで、傷つけられた名誉は回復しても、始まってしまった竜王戦はもう戻って来ない。

 三浦九段の主張を取り上げたNHKニュースを見て、今度は将棋連盟側が今後の“指し手”を考えなければいけない手番となった気がする。将棋ファンとしては、なるべく穏便にこの前代未聞の騒動を収めてほしいと願うばかりである。

(2016年10月18日記)

2016年10月17日 (月)

人生初めてのオシャレ

 このところ、ずっと頭から離れないことがある。髪を染めに行こうかどうかと悩んでいたのだ。身体も頭は自然のままが一番だと私は考えてきたのだが、将棋のトップ棋士・羽生善治三冠が《気分転換に》と髪を染めたのを機に(?)、巷の不調説を一蹴するかのごとく勝ちだしたので、そんなに気分が変わるものかと思ったのがきっかけである。

 男性で四十代に染め始める人は多いのかもしれない。いつだったか、私と同世代の川上量生さん(ニコニコ動画を運営している株式会社ドワンゴの経営者)が髪を染めている様子が、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』で流れていた。川上さんは「真っ黒にするのはいかにも“白髪染め”という感じがするので……」と、少し茶系の色を選ばれていた。どういう色にするかは人の好みだが、加齢とともに白くなる一方の頭に色を入れるのは、ちょっとしたオシャレとしていいと思った。

 私がこんな話題を取り上げたのは、もう行く気持ちを固めたからである。普段は床屋で15分程度カットしてもらって済ませる私が、お店を変えて「染めたいのですが……」と言うつもりになっているのは、自分でも不思議である。人生初なので、とても緊張しそうな気がする。今日行く決心をしたわけだが、これは明日妻が美容院に行く予定があるからというのが一つ。そして二つには、うじうじと「この髪どうしようか、染めようかなあ」と頭を悩ませ続けている自分に嫌気がさしてきたためである。

(2016年10月17日記)

2016年10月16日 (日)

『あとは死ぬだけ』

 13日にノーベル文学賞の受賞者がボブ・ディランさんと発表された時、「ボブ・ディランって誰?」と思った人が少なくなかったという(特に若い世代)。日本では、ある程度上の年齢層で洋楽をよく聴く人たち以外には、殆ど馴染みがなかったのだろう。今から私が取り上げる中村うさぎさんも、そんな感じの人になりつつあるかもしれない。

 本の装丁は白色を基調としていて落ち着いているが、近著『あとは死ぬだけ』(20167月発行、中村うさぎ著、太田出版)はタイトルが尖っていて私は大いに刺激された。ページをめくっていってビックリ。目次の前にご自身の写真が掲載されているのだが、その中に裸(上半身)が載っているのだ。豊胸手術前と手術後を対比した露わな写真である。そして最後は、病気で入院していた時のむくみの見える顔写真。ここまできて、本に『あとは死ぬだけ』と付けられた意味が分かった気がした。

 男性であれば“破天荒”という表現がピッタリくるのだろうか。中村うさぎさんは、買い物依存症(それに伴い破産寸前に)、ホスト狂い、デリヘル体験(サービスを提供する側)など、世間の間尺に合わない行動を取ってきた方である。物書きを生業とするうさぎさんはそれらの体験を文章で綴ってこられたが、それらは売名行為として行われたかといえばそうではなく、本人なりのお考えがあってのことである。その思考の部分は、本書や『私という病』(2006年発行、新潮社)を読めば理解することができる。

 つくづく人間というのは、複雑でよく分からない生き物だと思う。一見、本能や感情に振り回されて無軌道な行動に流されているように思えるうさぎさんが書く文章は、ある意味驚愕の文体である。これほど論理的に、そして丁寧に、しかも感性豊かに言葉を紡げる物書きの女性は、私にはちょっと思い浮かばない。性的なことに全く触れない内容の箇所を読めば、書き手は男性だと思う人が多いのではないか。

 私はうさぎさんの生き方や外への自分の見せ方には共感を覚えないが、書かれたものにはとても強く惹かれている。とりわけ本質的なことを射抜いた文章には、唸らされることしばしばである。『あとは死ぬだけ』では、次の珠玉の一文が私の心に深く刻まれることになった。

《我々は非常に狭く限定された主観の檻の中で生きている》

 “主観の檻”とは実に見事な言い回しだと思う。そしてこの一文は、人間の生き方に正解などないことも示唆していて私は大変気に入っている。

(2016年10月16日記)

2016年10月15日 (土)

便利になるほど面倒になるパラドックス

 将棋の話の続き。日本将棋連盟では今月5日、対局中に将棋ソフトを使用した疑いをかけられた三浦弘行九段に公式戦出場停止処分(年内)を下す以前に、将棋ソフトによる不正の防止策を定めていた。設けられた新たなルールは、(1)スマートフォンなどの電子機器は対局前にロッカーに預けること(対局中の使用禁止)、(2)対局中の外出の禁止、の二点。12月14日の施行が予定されており、東京・大阪の将棋会館で指される全ての公式戦に適用される。

 
近年、将棋ソフトの棋力向上が著しいことを受け、こうした規則を定めなければいけなくなったことは理解できる。スポーツの世界においてオリンピック選手でもドーピング検査を課されるくらいだから、ゲームにおいても、性善説に立ってプレーヤーのフェアな行動を信じる時代は終わったのだ。賞金や名誉、地位のかかった大一番に勝ちたいという気持ちが昂じた結果、ソフトを使う誘惑に駆られ負けてしまう可能性は誰もがある、と言わねばならなくなった。

 
今回の新ルールは、対局を外から観戦する将棋ファンには直接関係ないが、棋士は少なからず影響を受けそうである。今まで棋士は、対局の昼食休憩時等に、将棋会館から出て食事をとることが許されていた。12月14日からはそうした外出ができなくなるため、対局が終わるまで将棋会館内に缶詰め状態に置かれ、息が詰まると感じる棋士もでてくるだろう。外で気分転換できないのは、時代の流れとはいえ、少し気の毒に思えてしまう。

 進化を続ける将棋ソフトについては、プラス面、マイナス面が色々と指摘されてきた。過去の棋譜を分析したり、難しい局面の優劣を判断したり、読み筋を確認したりできることから便利であり、より高い棋力を身に付ける観点で有益なツールだと見る棋士は多い。が、その一方で、新ルールを見れば分かるように、棋士の行動に色々と制約を課す副作用を生むことにもなった。『便利になるほど面倒になるパラドックス』を感じずにはいられない。

 報道によると、今日開幕する竜王戦七番勝負では、金属探知機を使って手荷物などの検査を実施することで対局者が合意しているという。先の不正疑惑騒動もあって、対局者及び関係者が神経質になっているのはよく分かるが、かなり滑稽な絵図になるなあと感じ、つい呟いてしまった。

「金属探知機!? テロ対策じゃあるまいに。将棋は最低限、盤と駒があれば指せるものでしょうが」

 
以上は将棋の世界に限ったことではない。これから社会はますます便利に、そしてますます面倒になっていくのであろう。

(2016年10月15日記)

2016年10月14日 (金)

将棋界に激震!三浦九段に不正疑惑

 大変なことが起きてしまったと思った。12日夜、ネットでニュースを見ていると、《<将棋連盟>三浦九段の不正調査…対局中ソフト利用か》(毎日新聞)という記事が目に飛び込んできた。本文には、以下のような記述があった。

《日本将棋連盟は12日、三浦弘行九段(42)を年内の公式戦出場停止処分にしたと発表した。直接の処分理由は、提出を求めた休場届が期限までに届かなかったため。三浦九段は対局中に不自然な形で離席することが多いと対戦した棋士から指摘があり、将棋ソフトを不正利用しているという疑惑が浮上。連盟側は三浦九段から聞き取り調査を始めていた》(毎日新聞)

 三浦弘行九段といえば、プロ棋士のトップグループにいる一人である。そんな一流棋士が、対局中に離席し、スマホで将棋ソフトを使っていた不正疑惑が浮上。本人は、《「別室で休んでいただけ。疑念を持たれたままでは対局できない。休場したい」と話した》(朝日新聞)ということだったが、期日の翌12日までに休場届が提出されず、連盟が処分を決めたというのが現在までの流れである。

 近年、将棋ソフトの棋力がプロ棋士を凌駕するまでに向上したため、棋士はソフトを使うことで、難解な局面の優劣を判断したり、指し手の有力な候補手を見つけることを高い精度でできるようになった。こうした環境変化を受け、プロ棋士の間では、ソフトを搭載できる電子機器類の対局場への持ち込みを禁止した方がよいとする声がすでにあがっていた。その筆頭格は渡辺明二冠(現竜王・棋王)であったと私は記憶しているが、当の三浦九段本人も同じ趣旨のことを本の中で述べていたのである。

《三浦弘行:(棋士が)対局中に電子機器を取り扱うのは禁止にしたほうがいいですね》

(『ドキュメント電王戦 その時、人は何を考えたのか』(2013年発行、夢枕獏著、徳間書店))

 三浦九段は今回の一件につき、《「まったくのぬれぎぬ。不正な行為は行っていない。今後は弁護士と相談して行動する」》と新聞社の取材に答えており、真相は明らかになっていない。“黒判定”には至っていないが、連盟側の疑念を払拭できておらず、今はグレーと見られても仕方がない状況になっている。

 どういうやりとり及び聞き取り調査が連盟と三浦九段との間で行われたか不明だが、思うに、三浦九段が身の潔白を証明するには、保有しているパソコンやスマホ、タブレット端末などの電子機器を連盟に提出して、徹底的に調べてもらうしかないだろう。連盟がITの専門家に依頼すれば、対局していた時間帯にこれらの機器の将棋ソフトが動いていたかが分かり、全てがクリアになるはずである。三浦九段が《弁護士と相談して行動》したところで、肝心なことは証明できないのではないだろうか。

 ここで私は、STAP細胞騒動時の小保方晴子さんを思い出す。弁護士の先生方が懸命に守勢の小保方さんをサポートしたが、「STAP細胞はあります」と言い切ったご本人が、再現実験を成功させることができなかったため、誰も納得させることができなかった。三浦九段が「不正はありません」と言い切って周りを納得させたいのであれば、電子機器を使用した事実がないことを客観的に示す以外にはないと思う。弁護士云々の話ではない。

 今週末から将棋界最高峰のタイトル戦『竜王戦』が開幕するが、三浦九段はその挑戦者になっていたため、連盟が下した処分により出場できない異例の事態となった。そして代わりに、挑戦者決定戦で敗れていた丸山忠久九段が出場し、渡辺明竜王と対戦することが発表された。急遽、挑戦者に繰り上がった丸山九段は準備が満足にできていないだろうし、受けて立つ渡辺竜王も作戦を練り直す必要があることを考えると、両対局者が万全の態勢で臨めないのは将棋ファンとして残念というほかない。

 
唯一、不幸中の幸いだったのは、『竜王戦』が始まった後の段階で、挑戦者・三浦九段の不正疑惑が持ち上がらなかったことである。タイトル戦そのものに傷がつく汚点は、ギリギリのところで回避できたと見ていいだろう。私は将棋ファンとして『竜王戦』の対局が当然気になるが、今回の疑惑がどう決着するかも目が離せないことになった。明るい話題ではないだけに、複雑な気持ちでいる。

(2016年10月14日記)

2016年10月13日 (木)

『電通事件』の教訓はどこへ(その3)

企業人事やキャリアなどを専門とする多くの人が説いていることだが、私は新入社員について、「安易に退職せずに、最低3年間は辞めずに踏ん張った方がいい」と考えてきた。3年位は同じ勤め先で働かないと、会社の仕組みやビジネスの流れを十分理解できないことと、早く辞めても転職先ではそれまでのキャリアを評価してもらいにくいことが、その主な理由である。

 しかし、電通における痛ましい事件をニュースで読むうちに、辞めた方がいいケースも例外的にあると考えるようになった。かつての『電通事件』では新入社員がうつ病に罹り、入社約1年5カ月後に命を絶っている(1991年)が、昨年起きた過労死でも亡くなったのは新入社員で、入社1年目の12月のことだった。これは、“3年の辛抱”などと頑なな考え方に囚われていると、救われなくなってしまう命があるということではないか。

 昨年の事件では亡くなった本人が、仕事が辛いこと、心身に異常をきたしていること、さらには希死念慮が生じていることをツイッターで呟いていたにも関わらず、彼女を知る人たちは助けることができなかった。これは、友人・知人・同僚が責められるべきということではなく、人と人とを繋ぐツイッターという手段にも限界があることを示していると思う。

 今となっては、亡くなってしまった方は帰ってこないため、そこはつらくてやりきれないところだが、私なりに現在働いている若い人たちにお節介ながら伝えておきたい。仕事でどうしても耐えられない時、このままでは持たないと思った時は、辞めてしまって構わない。それも、ギリギリまで頑張るのではなく、立ち直れる力を余した状態で、辞める意思決定をする方が望ましい、と。

 「逃げるが勝ち」とは、昔の人はよく言ったものである。二十代前半の若人にとって先の人生は長いのだから、ちょっと立ち止まってよく考え、逃げて人生の軌道修正を図るのは全く問題ないことだと思う。生きて元気でいるうちは、何とかなるというのが私の実感である。

(2016年10月13日記)

2016年10月12日 (水)

『電通事件』の教訓はどこへ(その2)

 昨日取り上げた電通若手社員の過労死について、もう少し書いておきたい。ブログ執筆後に、ある大学教授が《月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない》とネット上で発言し、多くの批判を浴びたことをニュースで知った。この教授はその後謝罪コメントを投稿しているが、まずは元の発言とそのコメントを掲載してから話を進めたい。

《月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない。自分で起業した人は、それこそ寝袋を会社に持ち込んで、仕事に打ち込んだ時期があるはず。更にプロ意識があれば、上司を説得してでも良い成果を出せるように人的資源を獲得すべく最大の努力をすべき。それでも駄目なら、その会社が組織として機能していないので、転職を考えるべき。また、転職できるプロであるべき長期的に自分への投資を続けるべき。》

《私のコメントで皆様に不快な思いをさせてしまい申しわけございません。ここで、皆様にまとめて返信させて頂きます。

(1)言葉の選び方が乱暴で済みませんでした。

(2)とてもつらい長時間労働を乗り切らないと、会社が危なくなる自分の過去の経験のみで判断し、今の時代にその働き方が適合かの考慮が欠けていました。

以後、自分の専門領域を中心に、言葉を慎重に選び、様々な立場、考え方の方々がいることを念頭において、誠意あるコメントを今まで以上に心がけてまいります。》

 ここまで読んで私は、「この教授は単に火消しを図っただけではないか」と感じた。つまり、《言葉の選び方が乱暴だった》、《誠意あるコメントを今まで以上に心がけてまいります》というのは、主に表現方法についての反省であって、自分の主義主張が間違っていると非を認め考えを改めたわけではないと読めたからである。もしそうならば教授は、社会から批判をいくら浴びようが、正々堂々と受けて立てばいいではないかと私は思う。僅か一日、二日で翻意するような軽い内容を発言したわけではあるまい。

 亡くなった社員の残業時間は、月105時間に上ったと報道されている。労働法や医療関係の本に書かれていることだが、残業時間(時間外労働)が病気発症前1カ月間に月100時間を超える場合や、発症前26カ月間に月80時間を超える場合は、過重な業務負荷と病気(うつ病など)の関連性が強いと認められるという。この基準に照らせば月105時間の残業は、自殺が労災認定されて当然の、酷い労働実態だったと言えるだろう。

 私はこの長時間労働の他にもう一つ、看過してはならない点があったと思う。それはパワハラである。報道されているように、上司からの《「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」》《「目が充血したまま出勤するな」》という叱責や、亡くなったご本人がSNSに残した《男性上司から女子力がないと言われるの、笑いを取るためのいじりだとしても我慢の限界である》という書き込みを裏付ける事実が積み上げられれば、上司からパワハラがあったと見るのが妥当であろう。

 長時間労働だけでも十分酷なことだが、パワハラが加わるとさらに精神的に追い詰められ、病気を発症しやすくなると思う。上司-部下の関係は通常、指揮命令-服従という関係である。この人間関係が悪化していかんともし難くなると、部下は耐えられくなってやがて逃げ場を失う。私には今回の痛ましい事件は、長時間労働とパワハラの複合的な要因によって起きたものと思える(逆に言うと、上司がこの部下に親身になって接していれば、自殺には至らなかった可能性が十分あろう)。なぜ電通ほどのしっかりした大企業で、パワハラが防げなかったのかと疑問に思う(もし企業体質に起因していれば根深い問題である)。

 最後に、長時間労働についてもう一考。人は一体、何時間の労働まで耐えうるのだろうか。極端な例を挙げてみるが、カレーチェーン店『CoCo壱番屋』の創業者・宗次徳二さんはかつて、1日平均15時間半働いていたという。月に換算すれば残業は200時間をゆうに超える計算になる。

1996年は1日も休みをとらず、5637時間働いた。うるう年のため366日で割ると、1日平均15時間半働いていたことになる。日本の労働者の年間実労働時間の平均は1800時間程度だから、およそ3倍の仕事量だった》

(『日本一の変人経営者 CoCo壱番屋を全国チェーン店に育てた男の逆境力』(2009年発行、宗次徳二著、ダイヤモンド社))

 勿論、宗次徳二さんは従業員ではなく経営者の立場であったから、“残業”というのは正確ではない。計算上、実際に仕事をされた時間から法定労働時間(18時間)を引いたものが、それだけの時間にのぼったということである。ただ、人の3倍働いても宗次さんは亡くなったりはしなかった。自らの意思で経営者として働いた場合、こういう超長時間労働が可能な人もいなくはない(稀有な例だと思うが)。

 しかし、企業に雇われて、上司の指揮命令下で仕事に従事する社員はそういう存在ではない。仕事で受ける肉体的な疲労や精神的なストレスは、また違う性質のものなのだ。そして、ストレス耐性には個人差も歴然とある。雇う側、使用する側はそうしたことまで考慮に入れる必要があると思う。今日最後に言いたかったことは、“〇〇時間”という労働時間の数字だけで、働く人間の心身の状態を判断するのもやや短絡的だということである。

(2016年10月12日記)

2016年10月11日 (火)

『電通事件』の教訓はどこへ(その1)

 7日にショッキングなニュースを目にして胸が痛んだ。《電通・東大卒女性社員が過労死「1日2時間しか寝れない」クリスマスに投身自殺》(産経新聞)という見出しであった。この女性(当時24歳)は、業務の増加に伴い残業が増え、うつ病を発症していたとみられるという。別の報道によると、《上司からは「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」「目が充血したまま出勤するな」などと叱責されていたという》(時事通信)。

 言わずもがなだが、電通は日本の広告代理店トップ企業として知られている。一般には、華やかな業種の一流企業というイメージが持たれていると思うが、労働法やメンタルヘルスを扱った本には頻繁に登場する企業でもある。過去にも若手社員が長時間労働でうつ病になり自殺した事件があり、遺族が会社に対し損害賠償を請求する民事訴訟となったことから『電通事件』と呼ばれている。

 
この『電通事件』は最終的には金銭的な和解が成立したが、2000年の最高裁判決の中で使用者の安全配慮義務違反が認定された。会社は社員の健康に配慮する義務があるのに果たさなかったと断じたのである。この判例が契機となって行政が動き、使用者の安全配慮義務を明文化した労働契約法が制定され(2007年)、現在に至っている。

 過労自殺が社会で広く認知され始めたのは、『電通事件』がきっかけだとする見方もある。それほどの事件の当事者でありながら、また同じような構図で社員が自殺に追い込まれたというのは、電通は『電通事件』から何を学び、教訓としてどう社内で活かしてきたのだろうかと思わずにはいられない。皮肉にも今月7日、世界に例を見ない『過労死白書』(厚生労働省『過労死等防止対策白書』)が初めて公表されたが、来年以降の報告書では、電通が再び過労死の歴史に名を刻むことになるかもしれない。

 
今回亡くなった女性について、労働基準監督署が労災認定していたことが報じられているが、《社員の自殺については厳粛に受け止めている。労災認定については内容を把握していないのでコメントは差し控える》(時事通信)という電通の話は、あまりに型どおりで深く反省しているようには私には読めなかった。嫌な言い方に聞こえるかもしれないが、今後もまた犠牲者が出るような気がしてならない。

(2016年10月11日記)

2016年10月10日 (月)

妻の毒舌

 家の中での妻のフレッシュな毒舌を紹介してみたい。昨晩のこと。泊まっていた実家から帰ってきた妻と、今日(10日)のお昼ご飯をどうするかという話になった。私は、以前ヨーカドーで妻が興味を示していた『井村屋 ゴールド肉まん』を、5%引きで買える8日(ハッピーデー)に買っていたので、それを温めて食べようと提案したところ、あっさり却下された。

妻:「この間、紀文の肉まん食べたばかりじゃない?それに、8日に買ったばかりなのに食べちゃったらもったいないもん」

私:「いつ買ったかは関係ないよ。もし食べずにおいて、俺が近いうちに事故で万一死ぬようなことがあったらきっと後悔するよ。「あの時、食べさせてあげればよかった」って」
妻:「大丈夫。柩(ひつぎ)に入れてあげるから。三途の川で食べてね」

 妻のこの毒舌発言を、私が近くにあったメモ用紙に書き付けた途端、それを見た妻の口から二の矢が放たれた。

「あっ!またあたしのことブログに書くんでしょう。変なことを書いて、あたしを落とさないでよね!そんなキャラじゃないんだから」

 天に誓って言うが、私は“変なこと”は書いていない。「大丈夫。柩に入れてあげるから。三途の川で食べてね」は、正真正銘、妻の口から出てきた言葉なのだ。私はこの毒舌に気圧されて、昼の肉まんはおあずけとなった。ちなみに、妻が一番好きな肉まん(豚まん)は『551蓬莱』で、私が関西に帰省するたびに買って帰るお土産になっている。

(2016年10月10日記)

2016年10月 9日 (日)

妻の自制

 7日のこと。妻の職場で男性社員がサッカーの話題を持ち出した。前日のワールドカップアジア最終予選で、日本代表がアディショナルタイムに得点してイラクに辛くも勝ったゲームについてである。太った体型のその社員は、サッカー好きなのか経験者なのか大口を叩いたという。

社員:「僕が出れば、もっと点を取れたのになぁ」

妻:「ボールでですか?」

 前言撤回。今回に限っては、妻は「ボールでですか?」と言わなかった。これは妻の心に浮かんだことで、つい口から漏れそうになったが、慌てて飲み込んだというのが私への報告であった。

 
妻の毒舌には本当に感心させられる。心が広くユーモアを解する私は笑って聞いていられるが、家の外でも通用すると思うと大間違いである。うっかり人の神経を逆なでしたり、場を凍らせるかもしれないため、最近私は妻に「相手を見て、よ~く考えてから口にするんだよ」と諭してきたのだ。この日はそのおかげで自制が効いたのだろう(多分)。

 もっとも、あんまり私が言うと、萎縮効果で妻の良さが活きなくなる、いや、妻の土産話を私が楽しめなくなってしまう。それは避けたいので、妻には、相手の人を怒らせない程度に毒舌を吐くさじ加減というものを身に付けてほしいと願っている。

(2016年10月9日記)

2016年10月 8日 (土)

病院に防犯カメラの設置を

 横浜市の病院で2人の高齢者が中毒死した点滴異物混入事件は、実に恐ろしくて厄介な事件だと思う。未使用の点滴の袋に小さな穴が開け、界面活性剤を含んだものを注入して入院患者を殺害した殺人事件ということだが、手口が分かっているのにまだ容疑者の名前すら挙がっていない。マスコミ報道によると、病院内部に詳しい者、医療器具の扱いに精通した者の犯行ではないかと言われているが、怪しい人物がいたとしても、決定的な証拠(物証)を押さえるのは大変そうである。迷宮入りする可能性もなくはない気がする。

 今回の事件はNHKの『クローズアップ現代+』でも取り上げていたが、犯行の動機を探るという視点が足りない印象を受けた。これは一見不思議に思えたが、不特定多数を対象とする殺人か、特定の人を狙った殺人かがはっきりしないため、切り込むのは時期尚早と番組制作者は判断したのだろう。

 私の推量になってしまうが、亡くなった患者さんへの怨恨といった話は出ていないようであり、また7月以降病院で死亡した患者が増加したことなどから判断すれば、ターゲットは不特定多数だったと考えるのが自然であろう。ここから先は、この“不特定多数”を前提に書き進めることにする。

 犯行の動機は何か。この病院は終末期医療を手掛けている(寝たきりの高齢者が入院している)。そこで想像するに、犯人は回復する見込みのない患者を排除しようとしたのではないか。これは、以前障がい者施設であった殺人事件と同種の動機のように私は感じる。「社会の役に立たない人間は存在価値がない」と見て、切り捨ててよいとする考え方である。こういう恐ろしい思想の持ち主が、医療に携わっているとすれば、何としても捕まえる必要がある。

 病院にとっては明らかにコストアップ要因になるが、番組でも紹介されていた防犯カメラの設置を当たり前に行う時期にきているのかもしれない。病室は言うに及ばず、廊下や医療器具の保管された部屋などでカメラを動かして、後から犯人を追跡できるようにするのである。これは、今回のような犯罪ばかりでなく、患者に対する虐待を発見するツールにもなろう。どの程度、殺人のような犯罪の抑止力になるかは分からないが、事後的に解決できるだけでも設置の意味はあると思う。

 もし今回の事件が迷宮入りすれば、この病院は今後どうなるのだろうか。殺人者が潜伏したり出入りしている病院に命を預けようという人はいないだろう。“患者離れ”で病院経営が立ち行かなくなるリスクというものを考えると、防犯カメラは病院にとり命綱となる投資だとも判断できる。今回の事件から全国の病院が学べることがあるとすれば、そういうことではないかと私は考えている。

(2016年10月8日記)

2016年10月 7日 (金)

過疎の地方と首都圏を分かつもの

 携帯に届くメールを見て、父の一周忌で四国の田舎に帰っていた時のことを思い出した。昔から住んでいる叔母さんに話を聞くと、過疎化が進んでいて町の人口はピーク時から半分ほどに減っているという。近くにある高校も一学年が僅か1クラスとなり、廃校が検討されているそうである。

 若い人が減り、高齢化が進んでお年寄りばかりが住むようになった理由について、「ここは仕事がないからね」と叔母さんは言い切った。農業や漁業は一部残っているだろうが、雇用を創出するような目立った産業がないということである。町が廃れれば、情緒ある懐かしい景色が自然とともに見られるとはいえ、観光業も苦戦するだろう。

 考えてみれば、不思議な感じがする。東京を中心とする首都圏は、人の口に入る食べ物など衣食住に直結する“もの”を殆ど生産していないにも関わらず、二、三千万人もの人が集まっているのだ。まるで路上に落ちた甘いお菓子に群がる無数のアリのようである。これだけのアリ、いや人を首都圏に集める吸引力は、お金であり雇用であろう。あえて具体的には示さないが、サービス業には“虚業”とでも呼びたくなるような“生活非直結型”の産業が沢山あって、お菓子を欲しがる人たちを呼び込んでいる。

 首都圏を生活基盤にしている私は、そういう“虚業”を内心蔑んでいるところがある。「そんなもの、人間の欲望を煽っているだけで、本質的には社会に要らないじゃないか」と思うことが多々ある。百歩譲って、要るかもしれないが、「偉そうに振る舞って欲しくない」という気持ちが生じている。先の叔母さんは果物など地元で採れた食べ物を時々宅配便で送ってくれるのだが、地方の方が人間の生活の根本を支えているように私には思える。

 冒頭のメールについて。今日もお仕事紹介のメールが何通も届いた。そう、これが都市というところなのだ。給与や待遇面はともかく、お金を貰える仕事がある。虚業だろうが何だろうが、お膳立てされた仕事が現実にかなりの数存在するのだ。その中から選択して私も応募することがあるのだから、本当は批評家ぶってあれこれ言えた柄ではないかもしれない。

 過疎の地方と首都圏を分かつもの。それは仕事があるかないか、である。

(2016年10月7日記)

2016年10月 6日 (木)

心地よい昼寝

 今は昼下がり、もうすぐ午後1時半という時刻である。今日は朝ごはんを食べた後、何をするでもなく布団に戻った。まだ寝足りなかったせいなのだが、これがすこぶる心地よかった。何にも邪魔されず、外の物音に悩まされることもなく、正午近くになるまでぐっすり眠った。今日は季節外れの暑さになると天気予報は伝えていたが、午前中はまだ涼しい風が家の中を通っていて、私の顔を撫でてくれた。

 こういう昼寝は久しぶりな気がする。先日、午後昼寝をした時は酷い目に遭った。まず、芝刈り機らしきけたたましい音が鳴り始めた。夏の間に伸びた集合住宅の敷地内の雑草を、業者が刈っているに違いなかった。夏は暑くて作業をするのに適さないからこの季節なのだろうが、うるさすぎて寝るどころではない。

 
これが終わると、近所からピアノの音が聞こえてきた。音楽は上手ければ聞き流せるが、習いたてなのか、頻繁につかえて聞くに堪えないレベルであった。習い事をする人の気持ちも分かるのでご近所としてこれは黙って受忍したが、やはり睡眠の妨げとなった。

 
とどめは防災放送である。どこかに設置されたスピーカーから「地域の皆さま、いつも私たちを見守ってくださり有難うございます。本日も宜しくお願いします」という放送が、子ども達の下校時間に合わせて流れてきた。日常生活において静寂に高い価値を置いている私は、事件や事故など何もない時にこうした放送は不要だと思うのだが、どうやらこれは地域住民の多数意見ではないようである。

 かくして三つの音のために、この日は殆ど寝ることができなかった。私がわざわざ昼寝のことをブログに書くのは、昼寝が好きだからである。「昼寝をする時間があれば、外へ遊びに行けばいいのに」と思われる向きがあるかもしれない。しかし、つまるところ《人生は壮大なヒマつぶしである》(『上野千鶴子のサバイバル語録』(2016年発行、上野千鶴子著、文藝春秋))から、80年程度の人の一生を2万~3万で割った1日も、ヒマつぶしの対象であることは間違いない。寝てヒマをつぶして悪い道理はなかろう。

 今日の午後早々、こうしてブログを書く気になれたのは、午前中の心地よい昼寝のおかげであった。

(2016年10月6日記)

2016年10月 5日 (水)

現場力の強さ?

 昨日の引用に《日本の組織における現場力の強さ》というものがあった。しかし、こちらにはかなり翳りが見られるように思えてならない。私自身、こんな経験をしたことがある。

 ある単発仕事でのこと。二十数人が集まる現場に、定刻に一人が姿を現さなかった。30分ほど遅刻する旨の電話が途中で入ったが、到着したのは集合時間から遅れること1時間10分。二十代らしき女性が、汗ひとつかかずに平然と歩いてきた。遅刻の理由は、「電車に反対方向に乗ってしまい、気付いて途中で引き返したものの、今度は降りる駅を乗り越してしまった」というものだった。

 当然、こういう人が一人出れば、現場の仕事にはしわ寄せが生じる。朝から人繰りがタイトになって、仕事場全体の空気も微妙に悪くなるのだ。なのにこの人は、自分のミスを挽回しようというそぶりすら見せなかった。一貫して受け身のスタンスで、一日仕事をしたのである。

 
思うに、現場が“オール正社員”の時代から、短期契約等で雇用した社外の人たちを積極活用する時代になって、日本企業の現場力はかなり落ちたのではないだろうか。社外の人たちがみな問題ありということではない。が、昔のように現場で働く者が創意工夫しながら協力して仕事に取り組む風土が、色々なバックグラウンド、職業観・勤労観を持つ人たちが加わることによって、失われたように思うのだ。

 今日は少しバイアスのかかった書き方をしたかもしれない。しかし、と思う。数十年前、1時間10分も遅刻して悠然と歩いてくる社員が日本にいただろうか? 寡聞にして私は聞いたことがないのだ。もはや日本企業全般について、現場力をアピールポイントとするのは無理があるように思えてならない。

(2016年10月5日記)

2016年10月 4日 (火)

意思決定能力の弱さ

 今の日本で、解決まで時間がかかりそうな問題として、築地市場の豊洲移転と東京オリンピックの準備が挙げられるだろう。これにより、芸能人・著名人のくだらない不祥事を追いがちなマスコミは暫くの間、真面目な政治・経済・スポーツの分野でネタに事欠かない慈雨に恵まれた、と見るのは穿ちすぎだろうか。

 
移転先の豊洲で土壌汚染対策の盛り土がされていなかった前者の問題では、「責任者を特定できず」という結論が導かれた。東京オリンピックについても、開催費用が当初見込みの4倍にも上ることにつき、誰がいつどう意思決定した結果、このように大きな齟齬が生じたのかよく分からないままである。後から満足な検証すらできないというのは、どう考えたらいいのだろう。

 新味ある見方ではないものの、日本人の意思決定について参考になりそうな記述が最近の本にあったので紹介してみたい。“舞台”は平時ではなく戦時だが、日本人の特徴を巧く捉えている気がする。

《「最強の軍隊はアメリカ人の将軍、ドイツ人の将校、日本人の下士官と兵だ。最弱の軍隊は中国人の将軍、日本人の参謀、ロシア人の将校、イタリア人の兵だ」というジョークがある。これが揶揄するのは、日本の組織における現場力の強さと意思決定能力の弱さである》

(『戦略がすべて』(2016年発行、瀧本哲史著、新潮社))

 第二次世界大戦後、惨敗した日本軍について行われた種々の分析の中にも、同様の指摘があったと記憶している。あれから七十年以上の月日が経ったが、日本人の気質は本質的なところであまり変わっていないということかもしれない。

(2016年10月4日記)

2016年10月 3日 (月)

日本将棋連盟のホームページ改訂に思う

 比較的最近のことだが、私が毎日のように訪れている日本将棋連盟のホームページがリニューアルされた。といっても、事前に知っていたわけではなく、ある日突然、今まで見たこともないトップページがパソコンの画面に現れて面食らったというのが本当のところである。

 こういうものは慣れの問題があるからある程度仕方がないが、なかなか見たい情報まで辿りつけないというのが新しいホームページの印象であった。私だけ使い勝手がいまいちと感じているのかなと思っていると、9月27日付で、『公式Webサイトに関するお詫びとお知らせ』と題する文章がホームページに掲載された。そこには次のような記述があった。

《このたび日本将棋連盟では、将棋初心者の方にも分かりやすいサイト作りのために、Webサイトをリニューアルいたしました。しかしその結果、一部記述の間違いや不具合が出てしまっている状況です。将棋ファンの皆様、関係者の皆様にはご迷惑をおかけしておりますことを、深くお詫び申し上げます。》

 これを見て私は、「やはり、多くの将棋ファンが似たような感想を持ったのだな」と感じた。《分かりやすいサイト作り》をしたとはいっても、従来のホームページに慣れ親しんだ一部のファンには、逆に違和感を持たれる事態を招いてしまったということである。

 使い勝手以外に、私には気になる箇所があった。それは、以前よりデータの情報量が落ちている部分が見られたことである。例えば、『今年度棋士成績・記録』というコーナーに『勝率ランキング』というデータが載っている。ここには以前は、棋士名と勝数・負数・勝率の3データがあったのに、リニューアル後は棋士名と勝率のデータしか載っていない。こうなると、勝率をはじく元の数字、つまり何勝何敗なのかが一目では分からないのだ。現時点でランキング1位に、勝率10割を誇る棋士が一人いるのだが、調べると成績は2勝0敗。つまり、対局数が非常に少ないため計算上トップの座にあるのだが、それは『勝率ランキング』だけでは読み解けない作りになっている。

 私のように、将棋ファンの中には棋士や棋戦のデータの動きを楽しんでいる人は少なくないはずである(身近で言えば妻がそうだ)。だから、サイトの分かりやすさを追求したからといって、質を落としてしまっては、コアなファンが離れていく恐れがあると思う。先の『公式Webサイトに関するお詫びとお知らせ』には、《皆様方におかれましては、貴重なご意見をいただきありがたく存じます。現在、ご意見やご指摘をお受けし、大至急で修正しておりますことをお知らせいたします》とも書かれていた。サイトの運営担当者は今頃きっと対応に追われているに違いない。暫くは静観して、改善されるのを待とうと思う。

 そういえば私自身、自分のホームページはもう一年以上更新せず放置してしまっている。だから、人のことをあれこれ言う資格はないと言われればそれまでである。尤もこちらは、純粋に更新する気があるかどうかという気持ちの問題だと認識している。今の私は「ブログによる自己表現で十分」と満足しているのかもしれない。

(2016年10月3日記)

2016年10月 2日 (日)

優ちゃん

 一日限りの単発仕事において、一緒に仕事をする人の名前が事前に分かることがある。これは、雇用する側が、スタッフに対して当日いちいち配置や役割分担を詳しく説明する手間を省く趣旨だろう。

 
名前は、その人の凡その年齢などを読み取るヒントになったりする(知りえた名前を悪用してはいけないが)。例えば、“美智子”という名前であれば、民間から初めて皇太子妃となられた美智子さまのミッチー・ブーム(昭和33~34年)をきっかけに名付けられたものだろうと推測できる。つまり、その方の大体の年齢を推定できるのである。

 ここからが本題。ある仕事の時、私の相手となる人は“優”という名前であった。“美智子”ほど明快ではないが、感覚的に私は‘20代~40代の女性’だろうという気がした。出会いを求めるやましい気持ちはない(多分)が、どんな人だろうかという関心がないではない。当日の朝、仕事場に向かう途中で、妻へのメールにふざけ半分で次の一文を添えた。

《今日一緒に仕事する優ちゃんってどんな子かな~》

 現場に着くと、相手の方から先に挨拶をされた。顔を見ると、なんと初老の男性であった。私は、驚きのあまり声が出なかった。先方には、失礼な奴だと思われたかもしれない。しかし、タイミングを逸してしまっては、もう改めて挨拶などできない。気まずさを引きずることとなった。

 その後なんとか、与えられた仕事は二人できっちりとこなした。そして、お昼を過ぎた頃に無事に解散となった。ホッとした私は近くのレストランに入って席につくと、早速妻にメールした。勿論、私が受けた“衝撃”を伝えんがためである。すると、すぐに携帯の着信音が鳴った。妻からの返信である。

《レストラン、優ちゃんと来ればよかったのに》

 妻のユーモアは見事であった。それにしても、この日男性が現れたのは、薄気味悪い中年男の妄想へのペナルティだったのかもしれない。学んだ教訓 - 名前で年齢のみならず、性別を決めつけるなかれ。

(2016年10月2日記)

2016年10月 1日 (土)

景品は届いたけれど……

 普段から私は、コーヒーをよく飲む。朝目が覚めたらまず一杯淹れて飲むのが、長年の習慣になっている。もう十年以上も前からになろうか、あるコーヒー販売会社の豆を買った際に、パッケージに付いているクーポンを捨てずにとってきた。

 
ある時妻に、「クーポンが急に使えなくなることがあるかもよ」と言われ、ネットで調べてみた。幸いキャンペーンはまだ継続中で、クーポンの合計点数に応じて景品をもらえることが分かった。早速、応募用の封筒とクーポンを貼る台紙をネットからダウンロードして印刷、送る準備をすることにした。

 
台紙をよく見ると、「今後、製品、キャンペーン、アンケート等のお知らせを希望しますか?」という質問が記載されていた。現在はこの会社のコーヒー豆を購入するが減っていたので、「希望しない」を選択した。そして、今回限りの応募だと思って、クーポンを入れた封筒をポストに投函した。関心は景品以外にはない。

 3週間ほどして、申し込んだ景品が郵送されてきた。そこまではよかった。ところが別便で、『次回申込書』などの書類が送られてきた。これには正直、いい気分がしなかった。というのも、その書類には私の住所、氏名の他、“お客様番号(ID)”と“パスワード”が印刷されていたからである。しかも、《あなた様の「お客様番号(ID)」と「パスワード」を記載してありますので大切に保管してください》というご丁寧な一文まで記されていた。


 私は貯まっていたクーポンを利用すべく(景品が欲しくて)、応募しただけなのだ。なのにこの会社は、“お客様番号(ID)”と“パスワード”を勝手に付した上で、それを「保存するように」と伝えてきたのだ。私はそんなこと全然お願いしていないのに、である。


 これは顧客志向とは言えないやり方だろうと思う。顧客志向の大切さは、随分前から産業界で言われてきたことである。過度の一般化は禁物だが、及第点がつく企業は実は少ないのかもしれない。私は使うあてのない上記の書類を、家でシュレッダーにかけた。後は、この会社の中で顧客として登録された私の個人情報が誤って外部流出しないことを願うばかりである。

(2016年10月1日記)

« 2016年9月 | トップページ | 2016年11月 »