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2016年8月

2016年8月31日 (水)

母へのコンタクト

 一周忌の帰りに、母方の叔父さん叔母さんと会って食事をご馳走になった。メンバーは、母、兄、私と妻を加えた計6人である。

 どんな流れだったか、兄と私が、遠く離れた実家で一人暮らしをしている母にどうコンタクトしているかという話になった。あまり電話をかけない兄は、「年に4回ほど帰省している」と言い、片や私は「(それほど帰省はしないが)週に2回くらい母に電話をかけている」と説明した。同じ母へのコンタクトなのに、対照的なところが明らかになった。

 兄はあまり電話をしない理由に、「健康面でまだそれほど心配していないから」を挙げた。別に、私の電話の頻度が過剰だと言いたかったわけではなかろうが、今のところ電話を重視していない兄の考え方がよく分かった。一人暮らしだけど身体は動くから、何とか生活できているはず、ということである。

 その場であえて言わなかったが、私のまめな電話にはちゃんとした理由があった。それは、母の話し相手になることである。一人暮らしとなれば、誰としゃべることもなく一日が過ぎていくこともあるに違いない。女性は一般に話し好きであり、その点母も例外ではない。だから、ニュースになった社会の出来事から日常の些細なことに至るまで、話題は何であれ、人としゃべることができれば気が晴れるだろう、というのが私の考えである。

 「健康状態の確認のためだけに、そんなに電話したりはしないよ」と私が口にすれば刺々しくなるので、その場では控えることにした。もし兄がこのブログを見ていれば、私の意図が伝わるのだが……読んでいない(今後も読まない)と想像する。なぜなら、ブログの感想をもらったことが今まで一度もないからである(←少々嫌味かな)。

(2016年8月31日記)

2016年8月30日 (火)

“当たり前”は人それぞれ

 父の一周忌の法事で、約一年ぶりに兄と会った。父の故郷の旅館に泊まったのだが、夕食後、大浴場へ先に行って戻った私と、部屋で待っていた兄との間で珍妙なやりとりが発生した。

兄:「この旅館、サウナあったんだ。夜9時までか、もう無理だな。湊は入らなかったのか?」

私:「うん」

兄:「なんで入らなかったんだ?」

私:「なんで入るの?」

 私はこの時まで、兄がサウナ好きとは知らなかったが、好きな人にとっては、サウナはあれば入るのが当たり前となるのだろう。私は特別好きではないから、「なんで入らなかった?」と聞かれると、その質問自体、説明が面倒で素直に答えたくない、と感じてしまう。私の「なんで入るの?」は、「兄貴の“当たり前”と私の“当たり前”は違いますよ」ということを明らかにせんがための返答であった。

 今日書いたことは、他の質問にも“応用”可能な内容である。「どうして結婚しないの?」と聞かれれば、「どうして結婚するの?」と切り返すことができる。その時、相手がその返事の真意を「あっ!」と気付くかどうか……感性が鋭くない人には期待薄かもしれないが。

(2016年8月30日記)

2016年8月29日 (月)

黒髪の壮年男子

 8月8日のブログに、頭を金髪に染めた大学の先生のことを取り上げたが、実は私にも“染髪願望”がある。相当白いものが混じってきているから、一度黒く染めて気分を上げてみたいと、柄にもなく考え始めているのだ。

 先日、テレビやネットで将棋の対局を観ている時に、羽生善治三冠が髪を薄茶がかった色に染めているのに気がついた。それまでは、確か白髪が少しあったはずである。染めた理由は、シンプルに《気分転換に》ということらしい。私の心は、この辺りから揺れるようになった。ある時、妻に打診してみた。

私:「羽生さんがこの間、髪を染めてたじゃない? 髪染めて気分転換できるのなら、俺もやってみようかなー」

妻:「マジックで塗ってあげようか?」

私:「……」

 私は、染めるのの検討は、マジックで塗りきれないほど白髪が増えてからにしよう、と思い直した。もちろん、そのとき髪がまだフサフサと残っていれば、の話である。

(2016年8月29日記)

2016年8月28日 (日)

もてはやされる学歴とは

 少し前のこと。電車に乗っていて、ある予備校の広告が目にとまった。そして考えさせられた。広告には次のような文章が記されていた。

《日本でもてはやされる学歴が、海外で通じるとは限りません。グローバル社会では、学校名よりも個人の資質。受験だけを目標にせず、視野を広くもって学び、世界で自己実現できる力を育みたい》

 一読して、《日本でもてはやされる学歴》って何だろう、という素朴な疑問が湧いた。私の国語の読解力が足りないせいか、特定の学校(大学)を指した学歴という意味なのか、一般的に学歴は日本でもてはやされているという意味なのか、判然としない。

 もし前者だとすると、東大や京大、早慶といった有名大学の学歴が、海外ではそれほど大きな力を持たないという自明なことを、あえて言ったことになる。これは特に最近顕著な現象というわけではないから、「何を今さら」という感じがする。

 後者だとすると、これまた理解に苦しむところが出てくる。というのも、海外もそれなりに学歴社会だと思われるからである。個人の資質ばかりが平等、公平に評価されるわけではない。ある本に載っていた以下の記述は、そういうことを示唆している。

《シグナルの伝達が大学教育の価値の大きな部分を占めていることに疑いの余地はないだろう。(中略)雇用者は、4年制のエリート大学を出ているという「ブランド価値」のある学位保持者を、そうでない者より優先して雇用する(そして、より高い給与を支払う)傾向にある。

皮肉にも、これは当人の大学の成績にかかわらず当てはまることのようだ。たとえば、ハーバード大学の最下位の学生は、(公平であろうが、なかろうが)、他の多くの大学のトップ学生よりも、多くの仕事に採用される可能性が高い》

(『勝手に選別される世界』(2015年発行、マイケル・ファーティック+デビッド・トンプソン著、ダイヤモンド社)

 先の予備校は、教育方針が学歴至上主義ではないことを訴えたかったのかもしれない。しかし、果たして顧客たる受験生やその親御さんの考えなりニーズはどうだろうか。予備校に通う意義の殆どは、希望大学に合格する学力をつけるため、というのが実態ではないだろうか。私には、何回読んでも冒頭の文章が、“綺麗すぎ”“格好よすぎ”に思えて仕方がなかった。

(2016年8月28日記)

2016年8月27日 (土)

45歳という転換期

 もう現役を引退されて久しいが、将棋界に昭和時代トップ棋士として活躍された中原誠十六世名人という方がいらっしゃる。確か、日本経済新聞のコラム『私の履歴書』にも同じようなことが書かれていたと記憶しているが、『将棋世界』8月号に大変興味深い中原さんの言葉が載っていた。

4243歳までは存分に指せました。経験も大事ですからね。(中略)

ただ、45歳を過ぎると、ちょっと頭の能力が落ちる。私の場合、頭の中の将棋盤の映像が暗くなってきた。10代、20代のときとは明るさが全く違ったね。はっと気づいたときにはもう暗くなっていた。まさかと思ったが、それは仕方のないことです、必ずあります。渡辺さん(対談相手の現竜王)もそのうち分かる日がきます》

《まあ、多少の個人差はあるでしょうが、それ(この年代に差しかかり始めた羽生世代)は危ないですよ。歴史的に見てね。大山先生(十五世名人)だって45歳くらいからちょっと勝ち方がおかしくなったもの》

(『将棋世界』(20168月号))

 プロ棋士の棋力が中年に差し掛かると衰えるのは当然のことに思えるが、ここまで具体的に年齢及び身体の変化について言及したコメントに接したのは初めてのような気がする。「45歳かぁ……」と私は嘆息しつつ、わが身を振り返った。

 45歳を迎えた時に、健康面で特段感じた変化はなかったように思う。むしろ気になり始めたのは、アラフィフとなったここ1~2年の変化である。まず、小さな字が読みづらくなった。おそらく老眼の進行だろうが、手元の小さな字を読もうとすると、焦点を合わせるのにちょっと時間を要するようになった。

 
頭の働きについては、幸い目に見えて落ちたと実感したことはないが、これはむしろ情報を遮断した生活を送っているせいかもしれない。日頃新聞をこまめに読んだりせず、頭脳労働もしていないため、記憶力や情報処理能力が低下しているかどうかすら分からない。ひょっとすると、雑多な情報を遠ざける方を選んでしまう知的好奇心の減退こそ、問題視すべきなのかもしれない。

 手や脚の筋力はまだまだ30代の水準にあると自負しているが、もう若い年齢ではないということをよく自覚して、食事や運動、生活習慣に気を付けながら生活していく必要がありそうだ。

(2016年8月27日記)

2016年8月26日 (金)

昼休みの話題

 24日のことである。食後の昼休み、いつものように職場の休憩室で机に突っ伏して寝ていると、周囲の騒がしい声が聞こえてきた。女性陣の食後のおしゃべりであるが、普段より声が大きい。この日の話題は、前日に強姦致傷罪で逮捕されニュースになった俳優・高畑裕太(22)容疑者である。

 その日帰宅して、妻の話を聞き少々驚いた。妻の職場でも昼休みに、全く同じ高畑裕太容疑者の話になったという。それほどまでに、女性の関心を引いた事件であった。

 私が聞いた事件評と妻の職場の事件評を纏めると、女性の感想は大きく3点あった。1点目は、「馬鹿ね」である。これには、母親の視点に立った「馬鹿な息子!」という思いが含まれている。若いとはいえ、一線を越えた犯罪に及んだことで、芸能界での仕事を失い、一生を棒に振ってしまった。

 2点目は「お母さんが可哀そう」である。改めて書くまでもないが、高畑容疑者の母親は女優・高畑淳子さん。成人した息子が起こした事件ながら、事件に無関係の高畑淳子さんもこれから様々な社会的制裁を受けることになるだろう。この「可哀そう」には、同世代からの同情が感じられた。

 最後の3点目は、被害に遭ったホテルの女性従業員が40代であったことへの驚きである。妻の職場のおしゃべりでは、20代の若い同僚女性が、「被害者は40代なんですよぉー!」と、この世代を下に見る発言をしたらしい。妻はあえて反論しなかったが、内心こう呟いたという。

「あたし、40代なんですけど……」

 今日もやはり、トリを務めたのは妻である。

(2016年8月26日記)

2016年8月25日 (木)

気持ちの悪い依頼

 妻宛てに、見たこともない葉書が届いた。タイトルは『市民意識調査(郵送)にご協力ください』である。差出人は某大学の調査研究センターで、文面を見ると《市民のみなさまを対象に調査を実施し、いまの政治の見方や選挙への対応などについて、ご意見をお聞きしています》とある。妻は「なぜ自分が……」といぶかしがっていたが、これについては《選挙人名簿から、無作為に1000人の方を抽出したところ、今回はあなた様にご協力をいただくことになりました》との説明が付されていた。

 私が過敏すぎるのかもしれないが、ちょっと気持ち悪い依頼である。県や市などの行政機関からこうした葉書が届くのなら理解できる。が、大学は一般家庭の個人情報をこんなに容易に入手できるものなのだろうか(選挙人名簿は広く公開されているのだろうか)。回答内容については、《情報管理を徹底いたします》と書いてあったが、回答以前に、そもそも妻の名前と住所が、我が家と何の関係もない大学のコンピュータに保存されているのがしっくりこない。

 調査票は後日送られてくるようなので、妻が回答するかどうかはその時に決めればいいと思ったが、私の感じた“気持ち悪さ”を妻に素直に伝えたところ、意外な反応が返ってきた。

:「選挙のこと聞くんだって。何も考えてないのに」

私:「確かに人選ミスだね」

妻:「「いつも投票は、ポスターの顔見て選んでます」なんて、書けないしなー」

私:「……」

 結局今日も、主役は妻である。

(2016年8月25日記)

2016年8月24日 (水)

四たび妻登場

 妻の勢いが止まらない。妻の職場には三十代半ば位の男性社員がいる。どういうシチュエーションかは知らないが、その人が「『めざましテレビ』のお天気お姉さんが好きです」と口にしたところ、それを聞いた女性陣が一斉に“引いた”という。すると、空気の変化を察してか、社員はひるまず攻勢に出た。

男性:「皆さんだって、若くて格好いい男、好きでしょう?」

 これに即座に反応したのが妻である。妻は私にこう報告した。

「「いいえ、主人が一番です」って言ってみたわ。そしたら、「うそーっ!!」て言われて、あなたに対する愛が疑われたわ(笑)」

 私は妻に事あるごとに、「職場では静かに大人しくしているんだよ」と諭しているのだが、どうやら守られていないようだ。ちなみに、妻が私一筋であるかどうかは  である。向井理、福士蒼汰、小泉孝太郎、ジョセフ・チェン他、多くの若くて格好いい男のファンであることを忘れずに補記しておきたい。

(2016年8月24日記)

2016年8月23日 (火)

みたび妻登場

 今日もまた、妻の話である。妻の職場の同僚に、同い年くらいの女性(以下、Aさん)がいるらしい。とてもほっそりしている、というのが妻の評である。

 ある日のこと。妻がAさんと話をしていると、会話に男性の責任者(以下、S氏)が加わってきたという。以下は、妻の土産話を元にしたそのやりとりの再現である。

妻:「Aさんはとっても細いねー」

Aさん:「太らないのは体質かもしれません」

S氏:「何か運動でもしてるんですか?」

Aさん:「いいえ、何もしていません」(これで会話は終了)

(妻の心の叫び:「私には聞かないんかー!?」)

 笑えるエピソードだからまだ心配していないが、どうやら妻には、S氏に対する不満(?)が相当溜まってきているようである。

(2016年8月23日記)

2016年8月22日 (月)

再び妻登場

 先週たまたま、妻と仕事からの帰りの時間がほぼ同じになる日があった。最寄り駅から家の近所のショッピングセンターまで、無料のシャトルバスが出ていて、二人ともそれに乗ることができた。

 その時気付いたのだが、シャトルバスの運転手が見たことのない若い女性であった(マスクをしていたが、おそらく20代か30代)。普段バスを運転しているのは、きまって中高年の男性だったので、こういう仕事にも女性が携わるようになったのかと時代の変化を感じた。

  この正直な感想を、下車した後に妻に話したのだが、妻の返答は思わぬものだった。

妻:「降りる時その人に、「惚れてまうやろ!」って言えばよかったのに」

私:「…………」

 妻は某お笑い芸人の口調を真似して、「惚れてまうやろ!」と言った。このように、妻のユーモアは先読みできないものばかりである。

(2016年8月22日記)

2016年8月21日 (日)

妻の早合点

 ある時、オリンピックを見ていた妻が、こんなことを言った。

妻:「『女子高飛び込み』かぁ。文字見て、女子高生が飛び込むのかと思った(笑)。

   あたし出なきゃ! ちゃうか!?」

私:「…………」

 私は心の中で叫んだ。「誰が女子高生やねん!」

2016年8月21日記)

2016年8月20日 (土)

 今朝、何気なくテレビをつけると、リオ五輪のシンクロナイズドスイミングで銅メダルを獲得した日本チームと井村雅代ヘッドコーチがインタビューを受けていた。チームとして3大会ぶりの五輪メダルということもあって、この時ばかりは、昔から非常に厳しい指導で知られる井村コーチも笑顔で画面におさまっていた。

 
東京のテレビ局からは祝福の言葉と色々な質問が行われた。その後、井村コーチに対して「選手への厳しい指導は、愛があるからですよね」という趣旨の、締めとみられる問いが投げかけられた。すると、井村コーチは言下に「愛なんてありませんよ」と完全否定されたのである。その断定調に私は多少驚いたが、おそらく真意は、愛なんてそんな甘っちょろいもので練習しているのではない、メダルに徹底的にこだわってこそ、ということなのだろう。

 テレビ局のアナウンサーは、「指導者には選手に対する愛があって当たり前で、それがメダルに繋がった」という認識だったのではないか。しかし、井村コーチの場合はそうではなかった。私たちは時として、「こう考えているに違いない」と人のことを思い込む傾向があるが、考え方というのは人それぞれだと思っておいた方がいい。マスメディアの限界といえばそれまでだが、アナウンサーの質問はあまりに予定調和的で、底の浅いものだということを、井村コーチの回答は浮き彫りにしたのである。

(2016年8月20日記)

2016年8月19日 (金)

昨日

 昨日は一日、気分がすぐれなかった。仕事の予定を入れておらずのんびりできる日だったにもかかわらず、何かを前向きにやる気がしない。これといった原因も思いつかない。

 テレビをつけて、日本選手のメダル獲得に沸く様子を見ても、自分の気持ちに大きな変化はなかった。むしろ、オリンピックを盛り上げるための、視聴者を煽るような過剰な演出や不必要に熱い応援コメントが気になって、テレビからも離れていった。

 
その後やったことは、昼寝、買い物、夕食の準備くらいである。気分が乗らない時は、こうやって自分を自然体で放っておくしかない気がする。

 今頃、SMAPのメンバーは何を思っているだろうか、そんなことも特段ファンではない私の頭に浮かんできたりする。誰が悪いわけでもなく、ボタンの掛け違いで不仲になってしまったようだが、スターに昇りつめた人たちの行き着いたところが、深い悲しみや怒りに満ちた別離であるとすれば、人の幸せとは何だろう、とこれまた考えてしまう。

 そういえば、オリンピックの応援歌としてテレビで流れていたSMAPのヒット曲も、私の耳にはどこか悲しげに聞こえた。まとまりを欠いているが、昨日の自分はいかんともし難く、以上のような一日であった。

(2016年8月19日記)

2016年8月18日 (木)

自分スタイル

 今月10日のブログ『自分品質』で私は次のように書いた。今日はその続編みたいな話である。

《先に断っておくが、自慢話では決してない。自分でこう書くのも変だが、私は他のスタッフと比べて、仕事が早い方である(正確さを犠牲にしてはいない)。ちょっとした軽作業も、パソコンを使った作業も周囲より早く終えてしまう。別に負けん気が強いからではない。結果としてそうなっている》

 昨日はたまたま、職場でシフトが組まれていたのが、私と女性(既婚)の二人だけだったので、面と向かって話をする時間があった。彼女とは、一年以上前に別の職場でも一緒になったことがあり、そこそこ話ができる間柄である。

 そんな彼女に、「柏本さんはどの仕事が好きですか?」と質問された。今の仕事は細かく分ければ、10くらいはある。手先の器用さを求められるものもあれば、パソコンの扱いを問われるものも、持久力(体力)が肝になるものもある。それらの中で、何が好きかと聞かれたのだ。

 普段、感情を露わにせずに黙々と仕事をする私にも、仕事の好悪は存在する。理由にも触れながら、好きなものを幾つか挙げたが、私の答えを聞いた後、彼女はこう総括した。

「柏本さんは、そつがないですよね」

 なるほど、人からはこう見られているのか、と思った。具体的な感想が耳に入って来たことは初めてと言っていいかもしれない。『自分品質』にはこだわる私は、人の目には満遍なくどんな仕事でも相応の成果を上げるタイプと映るのだろう。だから、昨日のようにたった二人のシフトの時も、仕事が入っているような気がした。

 《そつがない》という表現は当たっていると思う反面、欠落している部分があることも私は自覚している。組織の階段を上がっていこうとする上昇志向や、上司といい関係を築こうとする気配り、先々の展開を考えた根回しをする力、などである。これらの能力は欠けており、それを何とかしようという前向きな気持ちも定着しなかった。それで、これらの能力を必ずしも必要としない、リスクを負って投資をしつつ短期の仕事で補うという、今の稼ぎ方に落ち着いている。こちらの方は『自分品質』ではなく、『自分スタイル』と言っていいものである。

(2016年8月18日記)

2016年8月17日 (水)

この娘にしてこの父あり

16日、盆明けの送り火を行なうために、日帰りで実家に帰っていた妻が、戻るなり土産話を披露してくれた。妻はリオオリンピックでメダルラッシュが続く日本選手をテレビで見て、父親にボケてみせたところ、すかさず見事な返しを食らったという。

妻:「あたし、次の東京オリンピック、出ちゃおうかなー。馬術なら間に合うかなー」

父:「馬が可哀そうだ」

妻:「福原愛ちゃんみたいに、あたしも小さい頃から卓球やっとけばよかった」

父:「ボール、腹で打つ気か?」

 ユーモアでは人後に落ちない自慢の妻だが、《この親にしてこの子あり》という言葉転じて、ここは《この娘にしてこの父あり》と言うべきか。私はその場に居合わせて、血の通った二人の掛け合いをライブで楽しみたかった、と思った。

2016年8月17日記)

2016年8月16日 (火)

不条理に感じられたこと

 折しもリオオリンピックの最中。日本はメダルラッシュに沸いているが、不条理に感じられたことがあった。起点となったのは、SMAPの解散報道である。

 
リーダーの中居正広さんがオリンピックのテレビ中継で、現地にて熱い声援を送っている頃、解散報道が流れた。そこからSMAPの動向を追うメディアの動きが一気に激しくなり、スポーツ新聞各紙の一面はSMAPが飾るようになってしまった。

 “なってしまった”と書いたのには理由がある。この時期は、スポーツ各紙にはオリンピックで活躍した選手を一番に取り上げてほしいと思うからだ。スポーツ選手にとってオリンピックは4年に一度しか巡ってこない最大のイベントであり、そこでメダルを獲得するというのは一生に何度もない偉業である。だから、スポーツ各紙には何をおいてもそれを華やかに報じてほしかった。

 諸事情があってのSMAPの解散報道だったようだが、偶然とはいえ本当に間が悪かった。ご本人に悪意など全くないわけだが、日本選手を応援する立場にある中居さんは、自らが当事者の解散報道により、メダリストのメディア露出を減らすという皮肉な結果を生んでしまった。

 
『プロに訊け!明日が見えた瞬間』(2006年発行、木村政雄監修、丸善)という本に書かれているが、メンタルトレーナーの田中ウルヴェ京さん(旧名:田中京)は、ソウル五輪のシンクロナイズドスイミングでメダルを獲得したものの、現役を退いてコーチになったら、それまでのスター扱いから普通の人扱いへと周囲の反応がガラリと変わり、傷ついたという。個人差はあろうが、メダリストであっても世間から称賛を浴びる“賞味期限”は案外短いということだろう。だからこそメディアには、私たちの関心事がどう振れても、せめてこの時期はメダリストに最大級の賛辞を送ってほしいと思う。

《ソウルオリンピックで銅メダルを獲ったときは、ものすごくうれしかったですね。メダルを目指していましたから、私のスポーツ人生のピークです。

 それに、私は目立ちたがり屋なので、オリンピックを終えて成田空港に戻ってきたときの熱狂的な歓迎ぶりや、どこを歩いてもワーッと人だかりになることもうれしかったです。有頂天で天狗になっていた嫌な時期です。

 オリンピック直後に引退して、シンクロのコーチになったとたん、状況がガラリと変わりました。私はスポットライトを浴びたいタイプなのに、コーチはスポットライトを浴びません。(中略)
 もう「キャーッ」と叫んでもらえないし、三年もたつと、私が田中京だと気づいてもらえることすらない……。私は、人に認めてもらえない、評価されないと感じて、傷つきました》
『プロに訊け!明日が見えた瞬間』(2006年発行、木村政雄監修、丸善))

(2016年8月16日記)

2016年8月15日 (月)

SMAP解散報道で感じたこと

 夜遅くにテレビを見ていると、「SMAP解散へ」というテロップが流れてきた。突然のことで驚いたが、解散そのものについては以前から取り沙汰されていたから、意外感はなかった。それよりも、このニュースには色々と考えさせられた。

 SMAPはアイドルグループだが、音楽バンドの解散にはパターンがあるらしい。RCサクセションを率いた忌野清志郎さんが、生前こんなことを仰っている。


《昔、プロダクションの社長の奥田さんに「バンドが分裂する原因はカネか女のどちらかしかない。それだけは気をつけろ」って何度も言われた》

(『ロックで独立する方法』(2009年発行、忌野清志郎著、太田出版))

 なるほど、SMAPはバンドではないからこのパターンにはならなかったのか……と、一人で変な合点をした。今回の解散発表は、収束したかに見えた事務所独立騒動の延長線上にあるが、メディア報道に載っているSMAPの現在の人間関係図では、中居-木村間には確執が、香取→木村には不信感があると描かれている(敬称略)。お金や女性を巡るゴタゴタではなく、純粋に人間関係がこじれているのだと外野から見ても理解できる。

 25年、いや28年という長い付き合いともなれば、相互に良いところも悪いところも、好きなところも嫌いなところも露わになっているに違いない。そういう中で、我慢できない部分が出てくれば、全員が気持ちを一つにして一緒に仕事をすることなどできなくなるだろう。このあたりは、華やかな世界に身を置くスターでなくとも、同じ人間としてよく分かる気がする。

 残念なことは、大抵の場合、一旦こじれた人間関係は元に戻らないことである。別れた夫婦がよりを戻して再婚することが珍しいように、一度“好き”が“嫌い”に変わると、それを再び“好き”に転じさせるのは極めて難しい。今回も例外ではないと思う。

 報道ではまだ、《確執》や《不信感》の詳細及び当人の具体的な感情までは明らかにされていない。が、年末の解散が決まってしまった以上、後は推移をそっと見守るのがよいのだろう。国民的アイドルグループとはいえ、大勢の人がメンバー5人の心の中を強引に覗きたがるような野次馬的好奇心は、疲れ切ったメンバー、そして悲しんでいるファンをさらに傷つけることになる気がする。

2016年8月15日記)

2016年8月14日 (日)

妻の大好物

 お盆である。昨年亡くなった義母を迎えるべく、妻の実家に行った。玄関を開けて迎え火を焚く時は、私のような者でもさすがに厳粛な気持ちになる。が、その一方で、妻とのたわいもない会話は毎日続いている。この日も例外ではなかった。

 迎え火を終えて、家の中で、私はなぜか不謹慎な質問を妻に向かって発してしまった。「僕より先に亡くなったら、お供え物は何がいい?」

妻:「フォアグラお願いします」

 その日の夜。テレビを見ていると、たまたま将棋を取り上げた番組をやっていた。かつて羽生善治さんと互角に渡り合い、病気のため二十九歳の若さで早世した村山聖さんの生き様がメインテーマであった。私はまたも、余計なことを妻に言ってしまった。「余命数か月ってことになったら、最後に何を食べたい?」

妻:「フォアグラお願いします」

 
私は心の中で「どんだけフォアグラ好きなんだー!」と叫んだ。もう家でも外でも随分食べていないが、これにはお互いの健康面を慮って、という側面がある。それでも“食”の話題になると、妻の口からはフォアグラが頻出用語になるのである。妻の好きな食べ物を許容して、彼女の肝臓をフォアグラにしてはなるまい、と健康オタクの私は厳しい姿勢で臨んでいる。どちらが長生きすることやら……。

(2016年8月14日記)

2016年8月13日 (土)

人家の真上に飛行機を飛ばす愚

 7日に放送された『噂の!東京マガジン』(TBS)を観て、こんな愚かなことはそうあることではない、と思ってしまった。“怖い…上空300m都心低空飛行”と付けられた『噂の現場』のコーナーは、次のような概要であった。

2020年の東京オリンピックに向けて、羽田空港の発着便数を増やすことを目的に、着陸時に都心の上空を飛行する新しいルート案が、国土交通省と関係自治体との間で合意されました。

 首都・東京の人口超過密地帯の上空を飛ぶことによる、騒音や落下物に対する安全対策はどうなっているのか? 飛行ルートの下にあたる地域の住民や自治体、国土交通省などを取材しました》

(『噂の!東京マガジン』(TBS)ホームページ)

 
新しいルート案では、羽田空港の発着便が、大田区をはじめとする東京の上空を低い高度で頻繁に飛び交うことになるという。騒音による住環境の悪化も問題だが、私はそれ以上に航空機事故のリスクを看過できないと感じた。航空機事故は離発着時が最も発生しやすいとされることから、飛行ルートと重なる場所に住む人たちは、飛行機が墜落する危険性と隣り合わせの生活を余儀なくされることになる。

 私は御巣鷹山の日航ジャンボ機墜落事故(1985年)を、三十年以上経った今もよく覚えている。もし機体が落ちれば殆どの乗客が助からない。新ルート案を推し進める人たちは、「現在は当時よりもきちんと機体整備が行なわれているので、大きな事故は起きない」などと言うのだろうが、どんなにきちんと整備してもリスクはゼロにはならない。飛行機を人が扱う以上、ヒューマンエラーの可能性は残ってしまう。

 航空業界ではないが、示唆に富んだ事例がある。外食チェーンのサイゼリヤ(イタリアンワイン&カフェレストラン)ではかつて、厨房の調理スタッフが包丁で手を怪我する事故をなくすために、包丁そのものを使わない調理方法を導入・確立したという。厨房に包丁がなければ、包丁による事故は絶対に起こり得ない。

 東京の人口超過密地帯の上空に飛行機を飛ばすというのは、従来包丁がなかった厨房に、わざわざ包丁を置くようなものである。包丁を使いだせば、どんなに料理人の腕が良くても、手を切る可能性はゼロにはならない。そして、ゼロにならなかった時の被害は、人口超過密地帯ゆえに甚大なものとなろう。

 その時、誰が事故の責任を取れるだろうか。国土交通省は、「自分たちは枠組みを作っただけだ」として、航空会社を矢面に立たせるのだろう。事故が起きれば航空会社が真っ先に非難されるのは間違いない。だが、それで済むのだろうか。事故で死者が出れば、原状回復は不可能となる(死者は生き返らない)。ということは、元に戻すという形での責任は誰も取れないということである。行政をはじめとする新ルート案の関係当事者は、目先のメリットに目を奪われて、責任を取れないことをやる愚を犯そうとしている……私にはそう思えて仕方がない。

(2016年8月13日記)

2016年8月12日 (金)

朝八時前の笑顔

 最近、朝八時前という早い時間に、駅前で宗教団体が立て看板や書籍を置いて、勧誘しているのをよく目にする。勧誘といっても大声で呼び込みをしているのではない。女性が立ってニコッと微笑んでいるだけだが、朝からあんな笑顔をよくできるものだと、恐れを抱きつつ感心してしまう。

 教学と布教が両輪をなす宗教において、駅前で見る光景は布教活動の最前線なのだろう。電車に乗り降りする人の中に、悩み事を抱え、「何か救いになるものがあるかもしれない」と、立て看板の方へ近づいてみる気になる人がいてもおかしくはない(そういう人を実際に目の当たりにしたことはないが)。

 私は警戒心の強い方だから、この暑い夏に朝から立ち続けて笑顔を振りまくことのできるモチベーションはどこにあるのだろうかと、疑いの目で見てしまう。善意でもって人を幸せに導くように装いながら、実は金蔓になる信者を増やすことが狙いではないか……上手い話には何か裏があるはず……私は知らない人には不用意に近づかないように生活している。

(2016年8月12日記)

2016年8月11日 (木)

都合のいい電話

 昨日の夕方、電源を落としていた携帯に電話がかかってきていた。着信を見ると、大手人材派遣会社からである。「仕事の打診だな」とすぐに分かったが、夜急いで折り返すほどのことはあるまいと思い、『山の日』の今日の午後、内容を確認すべく一応電話をかけてみた。すると、案の定、9月某日の仕事の依頼だった。

 
今月下旬から9月にかけて、人手不足を見込んでいる派遣会社が多いのだろう。というのも、私はこの派遣会社には登録こそしているものの、年に数回しか仕事に応募していない。それゆえ、向こうは私がどんな人間か知るはずがなく、データベースをもとに「過去に仕事をしたことのある経験者」程度の理解しかしていないだろう。そんな人間に対しても、今から唾をつけておきたいということである。

 そもそもは、向こうからの“都合のいい電話”である。私は偉そうな態度を取るつもりはなかったが、「同じ趣旨のメールを頂いたようなので、そちらに返信します」と言って電話を切った。そしてメールの文面に、就業場所等につき一方的に希望を書いて、それが叶うならば前向きに検討する旨を明記した。“都合のいいメール”で返したのである。

(2016年8月11日記)

2016年8月10日 (水)

自分品質

 先に断っておくが、自慢話では決してない。自分でこう書くのも変だが、私は他のスタッフと比べて、仕事が早い方である(正確さを犠牲にしてはいない)。ちょっとした軽作業も、パソコンを使った作業も周囲より早く終えてしまう。別に負けん気が強いからではない。結果としてそうなっている。

 これを馬鹿らしく感じたこともある。同じ時給で仕事をしている以上、仕事が早いほど成果物1個当たりの金額は下がってしまうのだ。仮に生産性を倍にすれば、成果物1個当たりの収入は半減する。頑張れば頑張るほど、自分の仕事の価値を低下させてしまう。これでは自分の安売りではないか。

 
そういう大きな矛盾に気付きつつ、私は自分の仕事ぶりを変えることができなかった。他の人並みにペースを落とそうかとも思ったが(その方が身体も楽になるが)、それをよしとはしなかった。別に正社員の目が気になったわけではない。ならば、なぜ変えなかったのか、自分なりに考えてみることにした。

 数日経って、答えを端的に示す言葉が頭に浮かんだ。それが“自分品質”である。私は、「自分はこれだけの仕事ができる人間です」ということを、示さずにはいられなかったのだ。“自分品質”はプライドに繋がっているものである。人が見ようが見まいが、「普通にやれば、これくらいのことができます。そういう人間です」ということを自分で実際に確認することが必要だったのである。

 周囲と仕事のペースを合わせようとしない私に、苛立ちや嫉妬を感じている同僚がいるかもしれない。「自己顕示欲が強いやつだ」と思っている人がいてもおかしくない。しかし、私がこだわっているのは、やはり“自分品質”である。時給のアップなどを期待しているわけではない。もし将来、人から「どうしてそんなペースで仕事をしているの?」と聞かれた際は、以上に書いたような説明をしてみたいと思う(そんな機会は絶対に来ないと思うけれど……)。

(2016年8月10日記)

2016年8月 9日 (火)

正社員の視点

 職場の責任者が、派遣スタッフ数名が仕事をしている場所にやってきて、何も言わずに一周して帰っていった。これを見た同僚の女性が、責任者の去った後、こんなことを口にしたのが聞こえてきた。

なんの用で来たのかわかんない」

 フラ~っとやって来て、フラ~と帰っていった暇そうな様子を皮肉ったのである。が、私には責任者の意図がよく理解できた。さりげなく私たちの仕事ぶりを見にやってきたに違いなかった。自分のイメージ通りに仕事が進捗しているかどうか確認するためである。

 同じ日。時計の針が所定の休憩時刻を指したちょうどその時、無言で横を通り過ぎた責任者について、同じ女性が再びコメントした。

「休憩してください」の一言がない。気が利かないわ」

 これについても、私は責任者寄りに立つ。もちろん、「休憩してください」と言ってもらえれば、スタッフは心が多少は和むだろうが、責任者がそんなことを毎回毎回言ってはいられないだろう。責任者の業務範囲は多岐に亘り、スタッフへの気配りは周辺部分に位置すると思われるからである。休憩時間は決められているのだから、定刻になればスタッフが自分の判断で休みに入ればいいだけのことである。

 時に正社員の視点に立ち、正社員が何をどう考えているか想像しつつ仕事をするのは、派遣スタッフにとって意外に大切ではないだろうか。口から出た言葉が陰口に留まっているうちはよいが、“うるさい人”“面倒な人”とみなされれば、派遣は契約継続のお声がかからなくなるか、次のように宣告される恐れがあろう。

「もう来て頂かなくて結構です」

(2016年8月9日記)

2016年8月 8日 (月)

『広がる“ブラック部活”』を観て(番外編)

 『「死ね!バカ!」これが指導? ~広がる“ブラック部活”~』(クローズアップ現代+)を観て、テーマとは別のところで違和感を覚えたところがあった。それは、コメンテーターとして登場していた名古屋大学大学院准教授Uさんの“金髪”である。

 U
さんは教育者の立場からためになることを仰っていたように思うが、私は染め上げられた金髪が気になって仕方がなかった。一言で言えば、教育を扱う公共の場に金髪がそぐわないと感じたからである。「あなたは古い、時代はもう違う」と言う向きもあろうが、果たしてそうだろうか。学校の入学式で祝辞を述べる校長先生が金髪だとしたら、子ども並びに親御さんはどう感じるだろうか。「就活にはどんな格好で行けばいいですか?」と学生に質問された場合、金髪先生はどうアドバイスするのだろうか。

 面白い話がある。以前このブログで紹介したことのあるエピソードだが、大変興味深いやりとりなので再掲したい。

《茶髪問答がある。就職活動前の大学生が、「なんで黒くしなければならないのですか?」と聞いてくるのだ。反発でなくて、純粋に訳を知りたがる。自分で考えなさい、と突き放したいところだが、このケースは前述の質問魔とは違う。だから私は、

「髪の毛の色がキミのすべてを表すわけではないが、仕事をするときにキミの個性を認めてくれる人もくれない人もいる。特定の人がOKで特定の人がNGというときに、不特定多数を相手に何かを提供する側の者としてどうなのかね?」

と、ていねいに答える。これでたいてい納得する》

(『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話』(2011年発行、沢田健太著、ソフトバンククリエイティブ))

 私はこれと全く同じことを思う。准教授Uさんの“金髪”をNGと思う人がいる時(現に最低一人はいる、この私だ)、金髪は、不特定多数の視聴者に向かって教育に関するメッセージを伝える者の態度としてどうか、と思わずにはいられないのである。

 「人を見かけで判断してはいけない」と言うならば、これは現実から遊離した詭弁に近い。見かけには当人の価値観や嗜好がある程度反映しているし、少なくとも第一印象の段階では、人を見かけで判断するのが現実社会である。また、NHKは金髪を認めるほどまでに柔らかくなったのか、と別の驚きも禁じ得ない。広い教育の世界から、“金髪でない識者”を見つけ出すことが不可能だったとは私には思えない。

 人間は本来自由な存在であり、社会は多様な価値観を重視するものであるべきと私は常々考えてきたが、それでも“ふさわしさ”が求められる場面はあると思っている。テレビで堂々たる金髪を目にした私は、自分の思考がまだ浅いのか、何か足りない視点があるのかと疑ってもいるのだが、そういうことを考えさせる教育効果まで見越して出演されたのならば、准教授Uさんは大した御仁である。

(2016年8月8日記)

2016年8月 7日 (日)

『広がる“ブラック部活”』を観て(後編)

 私は地元の公立中学に入学してすぐ、テニス部に入部した。深い理由はなかったが、父がテニスをたしなんでいた影響が多少あったかもしれない。後は、身体を鍛えたかった。その程度のきっかけである。

 学校のテニスコートは2面しかなく、一方で1年生は大勢いたから、放課後は連日球拾いだった。コートに入って打つ練習ができるようになるまで、数か月かかった気がするが、よく覚えていない。私はこの部活をしんどく思うようになるのだが、その要因は全く別のところにあった。厳しい練習で1年生がどんどん辞めていき、男子は5、6人にまで減ってしまったのだが、私はこの中で友達が一人もできずに孤立していた。人と容易に打ち解けない生来の性質に加え、私以外は全員別の小学校から上がってきていたことも大きかった。彼らは最初から友達だったのである。私は練習合間の休憩時、一人ポツンと日陰に行って、凍らせた水筒片手に水分補給をしていたのを、夏の暑さとともに鮮明に記憶している。

 部活に行っても誰ともしゃべらないのだから、部活に前向きになれる要素がない。私の場合、別に“ブラック部活”の範疇ではないが、孤立した人間を、監督や先輩を含め誰一人として一度もケアしてくれなかったという意味では、冷たさが満ち満ちた環境だったと思う。

 先を急ごう。結局私は、夏休み明け暫くして退部した。監督には退部する旨を伝えに行った気がするが、やりとりを含めこの記憶はおぼろげである。ただ親には、「どうしても辞めたい」と涙を流して説得したように思う。親がどういう反応だったか、こちらも不思議と記憶にない(忘れたい記憶は、残らないように脳ができているのだろう)。

 私には、部活を辞めた決断に一片の後悔も抱いていない。あの時我慢して続けていれば人間不信に陥っただろうし、自尊心もズタズタにされただろうと思うから、あの決断をした自分を今でも褒めてあげたい気持ちである。

 私の経験では、辞めた後の方がよほど大切である。辞めたことで、負け犬根性を身につけてはいけない。漠然とそう感じ、辞めたことの代償を勉強に求めた。得られた時間的、精神的余裕を勉強に振り向け、それは高校受験で報われたのである。

 繰り返しになるが、部活を辞めることは決して敗北ではない。敗北や挫折と受け止めるかどうかは、本人次第である。辞めた後に、自分を立て直し、自分の力をどこに向けていくか、新しく進む道を納得感を持って日々の生活に落とし込んでいけるかどうかにかかっていると思う。部活の実態が“教育”とは呼べないものだと悟ったら、周囲の意見も聞きつつよくよく考えるべきであろう。

(2016年8月7日記)

2016年8月 6日 (土)

『広がる“ブラック部活”』を観て(前編)

 1日にNHKで放送された『「死ね!バカ!」これが指導? ~広がる“ブラック部活”~』(クローズアップ現代+)を観て考えさせられた。職場やバイト先など社会のあちこちに“ブラック化”は広がってしまっているが、教育現場まで侵されていたとは知らなかった。“ブラック部活”に悩む当人や親御さんには悪いが、私の第一感は「たかが部活じゃないか」である。

 番組では、監督や顧問からの暴言、長時間に亘る拘束が、“ブラック部活”の大きな問題点として挙げられていた。タブーとなっている体罰はすぐに表面化するから、より陰湿化した手段がとられていると言っていいだろう。そこに私は、いじめに似た狡さを感じる。

 先の「たかが部活じゃないか」の次には、「辞めたくなれば辞めればいいじゃないか」が続くのだが、事はそう簡単にはいかないようである。辞めるとなれば、内申書への影響や、部活でできた人間関係の喪失、さらには後について回る陰口への恐れがあるらしい。こうした懸念はどれも分からないものではないが、人生を長いスパンで捉えれば致命傷にはならないと私は思う。それよりも、真っ当さを欠いた教育現場において、十代という多感な時期にある子どもの人間(性)が歪んだり崩壊していく負の部分を直視すべきである。

 部活において、負け犬根性を叩き込まれ、心身ともに疲れ果ててしまえば、後の人生において社会に上手く適合できなくなる可能性が高まる気がする。そんな道を歩んでいるとすれば、それはもう教育と呼ぶには値しないのだ。間違っている世界、自分とは合わない世界は、我慢するばかりでなく、逃げるのも生きていく上で立派な戦略だと思う(“逃げる”の語感が悪ければ、“方向転換”と呼んでもよい)。明日はご参考までに、一つの説明材料として、私の体験を書いてみようと思う。

(2016年8月6日記)

2016年8月 5日 (金)

“ポケモンGO現象”に思う

 即席の造語だが、“ポケモンGO現象”を目の当たりにして、人の世は面白いものだなあとつくづく感じた。米国でサービスが開始されてヒットしたかと思えば、海の向こうの状況から本国日本でも期待が高まって、あちこちで興じる人が出てきた。私のいる職場でも何人もの大人がはまり、「ポケモン捕まえた」、「これ面白い」と休憩時間に口にしていたほどである。

 “ポケモンGO現象”で真っ先に私の頭に浮かんだのは、フランスの精神分析学者ジャック・ラカンの言葉である。正確な訳文を知らないが、日本では「人間は他者の欲望を欲望する」、「人間の欲望とは他者の欲望である」などと本では紹介されている。人間はその人固有のものを欲するのではなく、他者の欲望を自分の欲望として取り込む、ということである。

 「ポケモンGOは面白い」という他者の充足された欲望を見聞して、「自分もやってみよう」と思った人はかなり多かったに違いない。あれほど連日ニュースで騒がれなければ、日本では穏やかな滑り出しとなった可能性が高かったのではないだろうか。

 別に尖がった生き方に固執するわけではないが、私は他者の欲望と自分の欲望をはっきり区別して生活しているので、こういうブームで心動かされるということはまずない。それよりも、「自分は本当は何を欲しているのだろうか?」という若干哲学めいた問いかけを自分に行ないがちでなる。その一つの答えが手近な将棋観戦だったりするのだが、そうすると今度は、「なぜ自分は将棋観戦が好きなのか?」という更なる問いに入り込んでしまう。ラカンの言葉と一線を画した生き方をすれば、少々面倒くさいことになる……と最近思い始めている。

(2016年8月5日記)

2016年8月 4日 (木)

あるレディーとの会話

 私には、職場で気さくに話ができる同僚が一人だけいる。(おそらく)年齢が一回りほど上の女性で、とにかく気さく。なのに、個人的なことを一切詮索してこないのがいい。仕事の合間に、ちょっとした冗談を言い合える絶妙な距離感である(私だけがそう思っているのだろうけど)。

 そんな彼女の仕事を、私は手伝ってあげることがある(恩着せがましいかな?)。重たいものを動かす時は、「私がやります」と買って出るのである。彼女もそれを嫌がらないから、汗をかく私としても嫌な気がまったくしない。いいコラボである(そういえば彼女と私は、朝の着席で、隣になることが多い)。

 
先日、大きな荷物を動かす必要が生じた時のこと。私が彼女に、「レディーに持たせるわけにはいきませんよ」と軽口を叩いて代わろうとしたところ、意表を突いた言葉が返ってきた。

「レディー? 本当は“おばさん”って思ってるんでしょ!(笑)」

 彼女は自分の年齢を意識してるんだな、とその時思った。私は純粋に、女性は一般に腕力がないから男性が力仕事を引き受けるのは当然だと思っていて、それが“レディー”という言葉が口をついて出た裏にあった。しかし彼女は、年齢のいった人間だから手伝ってもらっていると勘違いしているように思えた。“レディー”が不適であれば、なんと表現すればよいのだろうか……。

 そういえば、「私はここでは一番の年長者だから」と自嘲気味に口にすることがある彼女に向かって、私はしばしば「先輩!」と呼び掛けていた。実際に彼女は人生の先輩でもあるし、「先輩!」はちょっと可愛げがあって個人的に気に入っているのだが、これが彼女の年齢に対する意識を高めてしまったのかもしれない(考えすぎかな)。とにかく、彼女がどう感じようと、女性に重たい荷物は持たせないというのは、私の行動規範の一つである(妻が聞いたらどう思うだろう)。

 ああ、今日もどうでもいいことを思考し書いてしまった。冷静に考えると、短期の仕事というのは、人間関係に気を使わずに整斉と目の前の業務をこなせばいいだけのことである。

(2016年8月4日記)

2016年8月 3日 (水)

『下町ロケット2 ガウディ計画』を観て

 DVDに録画してあったドラマ『下町ロケット2 ガウディ計画』(TBS系)を妻と一緒に観た。妻は池井戸潤さんの小説が好きで、このドラマは随分前に録っておいたものだ。私が書くまでもないが、『下町ロケット』シリーズも産業界を舞台にしたエンターテイメント作品で、早いストーリー展開に加え、主演を務めた俳優・阿部寛さんをはじめとする個性的な出演者の演技を存分に楽しむことができた。

 ここで、個性的な“俳優陣”ではなく個性的な“出演者”と書いたのにはわけがある。俳優以外の有名人が多く見られたからである。私が記憶しているだけで、次のような感じになる。

 今田耕司、吉川晃司、春風亭昇太、世良公則、高島彩、バカリズム、東国原英夫、恵俊彰(敬称略、50音順)

 目立っているなと思ったのは“お笑い”の出身者で、今は司会業に忙しそうな恵俊彰さん(ホンジャマカ)も入れると、少なくとも4人はいることになる。お笑い出身者が画面に登場するたびに私は、「俳優の仕事がお笑いに食われているなあ」と複雑な気持ちで見てしまった。ここで興味深いのは、お笑いが俳優の仕事を食うことはあっても、その逆はまずないということである。俳優が漫才やコントをやってギャラを貰うのは不可能と言っていいだろう。

 このようにドラマの出演を巡っては攻守がはっきりしているわけだが、私はそれを必ずしも否定的に捉えているわけではない。このドラマで、お笑い出身者の演技が見るに堪えないものだったということはなかったし、冴えないダメ社員を演じたバカリズムさんなどは、はまり役だと思えたほどである。

 
ドラマの作り手の視点に立てば、様々なジャンルの人に出演してもらうことで、より広範な視聴者を獲得できるという目算があるのだろう。ひょっとすると、過去の出演者データが分析されていて、ドラマの配役においては、高視聴率を得るための“出演者の最適ポートフォリオ”のような考え方があるのかもしれない。素人ながらそんなことを想像すると、普段は殆どドラマを観ない私も、ストーリーを追うのとは違った楽しみを見い出せそうである。

(2016年8月3日記)

2016年8月 2日 (火)

スターも有名人も記号になる

 北海道小樽市にある『石原裕次郎記念館』が来年夏に閉館するというニュースが流れた。メディア報道によると、施設の老朽化が大きな理由だが、来館者は開館当初の5分の1程度に減っているという。これでは、大がかりな補修に必要な費用を捻出できないというのもうなずける。

 この閉館のニュースを聞いて、私はかねてから感じていたことを再確認することとなった。それが、『スターも有名人も記号になる』である。私の母など高齢者には裕次郎ファンが多いようだが、私を含めそれより若い世代にとっては、昭和の大スターとはいえ石原裕次郎さんは過去の人である。ファンが聞いたら激怒するかもしれないが、ハンサム(イケメン)とは言い難い風貌は、一般の人と際立った差があるとは思えない。中年太りしてからの姿には幻滅すら感じてしまう。

 やがて、裕次郎さんに熱い視線を送った世代の人たちがこの世を去り、年月が過ぎれば、裕次郎さんは“石原裕次郎”という記号になるに違いない。“昭和の大スター”という枕詞はつくが、歴史の上では記号として認識されることになる。

 そう考えると、“売れること”“有名になること”に躍起になっている人たちの努力や頑張りは、称賛に値する一方で、クールに眺めることも可能である。売れに売れてどんな大スター、有名人になったところで、結局最後は記号化するだけなのだから。

 もちろん、自分のよく知るスター、有名人が老いと戦いながら記号に向かいつつあるのを感じるのは淋しさもある。7月31日には、あの千代の富士関が61歳の若さで亡くなってしまった……。平成生まれの人は、敏捷で強くて格好よかった“昭和の大横綱”の勇姿をよく知らないだろうから、ここでも記号化に向けて、時計の針が進む一方である。私は、記号化という宿命を認識してしまった以上、欲望渦巻く人の世を穏やかに諦観する一つの心得として、上手く活用するしかないかな、と思い始めている。

(2016年8月2日記)

2016年8月 1日 (月)

仕事の手順について

 職場で朝、「今日は○○の仕事です」と責任者に言われ、スタッフ全員が作業場へと移動した。準備が整うまでの間少しばかり時間があったところ、私の同僚となる女性三人が、今日これから行う業務の手順について話を始めた。

「AとB、どちらが先だったかしら?」

「確か、Aをやって、それからBのはずよ」

「そう、そう」

 ここで話は終了した。時間がなくなったからではなく、三人の認識が一致をみたからだが、私には不思議な終わり方に思えた。なぜなら、「なぜAが先でBが後になるのか」という元となる考え方について、誰も口にしなかったからである。

 このAとBの先後について、マニュアルには記載がない。かなり細かい点ゆえ、運用ベースで手順が決まってきたものなのだ。そして、仮にBが先でも、大きな不都合が生じるわけでもなかった。それでもAを先にすべしという運用に落ち着いたのは、その方がプラスが大きいと分かったためである。そのプラスは誰かが懇切丁寧に教えてくれるものではなく、問題意識を持った人が感じとれる類のものであった。

 知的頭脳労働に限らず、おしなべて仕事というものの手順には、何かしら背景や元となる考え方があるものである。それが何かを考えようとしないならば、“手順の丸暗記”というつまらないことをしなければいけなくなるし、いちいち面倒なことであろう。こうした仕事への向き合い方が、一部の非正規社員が軽んじられる一つの理由になっていなければいいが、とお節介ながら思う。

(2016年8月1日記)

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