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2016年7月 6日 (水)

昆虫採集は自然破壊か

 昨日の『チョウを追う旅』(小岩屋敏著、ヘキサポーダ)に、日本人の自然観のようなものの変化を感じさせる記述があった。つい読み流してしまいそうなところだが、私は気になって立ち止まった。

198890年頃、「夏休みの宿題に昆虫標本を出したら、虫が可哀そう、と先生から叱られた」「みんなから殺虫鬼と言われた」といった悩みや相談事が日本のアチコチから聞こえてきました。

 ちょうど日本自然保護協会流の「花は摘まない、虫は採らない」「残すのは足跡だけ、持ち帰るのは思い出だけ」(歯が浮きそう)という観察原理主義が浸透した時期。

「昆虫採集は自然破壊」と非難されるようになり、その延長が「殺虫鬼」騒ぎになったワケです。

 不思議なことに、多数派の趣味の魚釣りや狩猟は非難されない。絶対的少数派の趣味である昆虫採集だけがなぜか標的に。

 このままでは「虫屋のような少数派が、少数派というだけで苛められるようになる。こういう風潮は良くない」と考える昆虫愛好家が「日本昆虫協会」を作って、現状をマスコミに訴えることになりました》

(『チョウを追う旅』(2014年発行、小岩屋敏著、ヘキサポーダ))

 子どもの頃虫好きだった私は、標本作りに熱中したことは一度もなかった。振り返ると、これは私が生きている虫、動いている虫にしか関心が向かなかったのに加え、標本の作り方を学ぶ機会がなかったせいである。それでも、もし友達の誰かが夏休みの宿題に、捕まえた昆虫の標本を学校に持ってきていたら、きっと羨望と尊敬のまなざしで眺めただろうと思う。

 「昆虫採集は自然破壊」には、実は有力な(と私が考える)反論がある。本で見かけたのだが、私は「なるほどなあ」と唸った記憶がある。

《虫は沢山卵を産むので、人間が昆虫採集でとったくらいでいなくなることはない》

(『森毅の置き土産 傑作選集』(2010年発行、森毅著、青土社)) 

 絶滅が危惧されるような昆虫でなければ、少々人間が捕まえたところで個体数が大きく減ったりはしないのだ。「昆虫採集は自然破壊」と主張する人たちは、そもそも虫の生態をよく知らないから、極端な考え方に囚われるのかもしれない。「自然破壊」という大仰な非難ではなく、「虫を殺すのは可哀そう」という素朴な気持ちは分からないではないが……。

 が、この「虫を殺すのは可哀そう」にしたって、実は少々バイアスがかかっている。例えば動物園は、人間の見せ物にするために、狭い場所に動物を押し込め、その動物を飼うために生餌を与えたりしている。動物園は人間が生きていくのに不可欠なものではない。だから、生き物の命を不必要に奪っていると言えなくもない(動物園を全否定するつもりはありませんが)。「虫を殺すのは可哀そう」なら、これだって「可哀そう」であろう。

 もっと言うと、私たちの“食べる”という行為も残酷さは否めない。牛、豚、鳥など昆虫よりずっと高等な動物を、わざわざ美味しい食材として口に入れるために繁殖させ、殺すのである(牛も豚も鳥も可哀そう)。人間がたんぱく質を摂取するためなら、大豆など代替食品があるにもかかわらず、である。

 小岩屋敏さんは“原理主義”という難しい言葉を使われたが、「昆虫採集は自然破壊」という凝り固まった見方は危険を孕んでいると私は考える。もっと視野を広く持ち、様々なことに疑問を感じつつ、柔軟に自分の頭で考えることが望ましい。そうしないと、文明社会を築いた人間の存在そのものが、自然破壊の最大の元凶であるという大切な事実を忘れかねないと思う。

 
あっという間に暑い季節の到来である。そろそろ、セミなどを虫かごに入れた子どもが近所にも現れそうだが、私は虫を毛嫌いしたり問題視するどころか歓迎したい気持ちでいる。

(2016年7月6日記)

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