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2016年6月 5日 (日)

最近私に取り付いた価値観

 いい大人になると、人間なかなか価値観が変わることはない気がするが、このところ私に取り付いた価値観がある。それも、一過性のものではなく、私の生き方や人間関係を大きく左右する骨太の“効果”を生みつつある。ブログで今までに何度も取り上げたことがある生物学者・池田清彦先生の《依って立つ原理》に触れて、その考え方が根付きつつあるのだ。先生は多年にわたり何冊もの著書で紹介されているが、まずはその原理の説明から始めよう。

《私が依って立つ原理は極めて単純で、次のようなものだ。

「人々が自分の欲望を解放する自由(これを恣意性の権利と呼ぼう)は、他人の恣意性の権利を不可避に侵害しない限り、保護されなければならない。但し、恣意性の権利は能動的なものに限られる」》

(『正しく生きるとはどういうことか』(1998年発行、池田清彦著、新潮社))

《(能動的というのは)他人を愛する権利、他人を無視する権利、アホなことをする権利などを有するが、他人に愛される権利とか、ちやほやされる権利とかはないのである》

(『世間のカラクリ』(2014年発行、池田清彦著、新潮社))

《私の人生なのだから、どのように生きようと勝手だ、というのはまさにその通りなのだが、ここには他人の恣意性の権利を侵害しない限りという条件がつく。但し、恣意性の権利は能動的なものに限られる。これは池田流リバタリアニズムの公準である》

(『心は少年、体は老人。』(2015年発行、池田清彦著、大和書房))

 “他人の恣意性の権利”というのが少々分かりにくいが、池田先生によると、例えば、修学旅行の待ち合わせ時間に遅れてきた生徒は、特に責められる必要はないという。なぜなら、他の生徒たちはこの遅刻者を待たずにさっさと出発すればよいからである。つまり、他の生徒たちの能動的な権利を侵害しているわけではない、ということである。日本社会の通説的な価値観、常識では、待ち合わせに遅れた人は、“みんなに迷惑をかけた人”として、当然に責められることになろう。しかし、池田先生の考え方に依れば、これも自由として許されることになる。

 この原理が私にどのように影響するかを書いておこう。私は結構、大勢の人と会うのを面倒がるところがある。その際の理由は多種かつ複合的であって、「その人との会話がはずまない(楽しめない)」、「緊張する」、「過去に(特定の人と)嫌な経験をした」、「プライベートにつきやたらと聞かれるのが不快」、「(会うことの他に)もっと楽しいことがある」等々である。そういった真の理由を前面に出すのははばかられるため、明かさないまま人の集まり(例:飲み会)を遠慮することがあるのだが、これを正当化するロジックとして、池田先生の考え方がピッタリくることに気付いたのである。私がそういう会への参加を断ったところで、その会は私抜きで開くことができるから、“他人の恣意性の権利”を侵害したりはしていない。

 まるで書きたい放題の今日のブログを読んで、不愉快に思った人が仮にいたとしても、私に責められるところはない。嫌ならば、その読者は読まないようにすればいいのであって、読者の方の権利を侵害していないはずである。そして、私の文章には「読まれる権利」(受動的な権利)はないが、「書く権利」(能動的な権利)は存在するのだ(←とても高慢な態度に見えるけれど)。

 
以上が、『最近私に取り付いた価値観』である。他人はこんな私を気に入らないかもしれないが、私はかなり大きな精神的自由を得た気がする。人生の後半戦を楽しく生きるための武器として、是非活用したい。


(2016年6月5日記)

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