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2016年5月

2016年5月31日 (火)

たかが髪、されど髪

 最近、一つ生活習慣を変えた。毎日の洗髪を、二日に一回に変えたのだ。もちろん、これにはきっかけがある。『医者に殺されない47の心得』(近藤誠著、アスコム)という本を読んだのだが、その中の【心得35】「石けん、シャンプーを使わないほど、肌も髪も丈夫になる」に、次のようなくだりがあった。

《作家の五木寛之さんと対談したとき、いちばん聞きたかったのは「数か月に一度しか髪を洗わないというのは本当か」ということでした。

「本当です。昔は盆暮れだったけど、まわりから「そりゃひどい」と言われて春夏秋冬に1度ずつになって、最近は1か月半に1回は洗っています。僕は『路上生活者にハゲ頭なし』という真理を発見しました」とおっしゃっていました。

 論より証拠で、五木さんの頭髪は、80歳にしてフサフサです》

(『医者に殺されない47の心得』(2012年発行、近藤誠著、アスコム))

 私は五木寛之さんの風貌を思い出して、自分も早速見習おうと思った。もっとも、1か月半に1回の洗髪は自分の衛生感覚ではちょっと不潔に思え、妻の猛反対も予想されたから、「洗う頻度を今までの半分にしてみよう」と考えたのである。

 今はまだ過ごしやすい季節だから、困ったことは全く起きていない。それで、汗を大量にかく夏場を上手く乗り切れるかが正念場だと思っている。ちなみに、私の頭はまだ地毛で覆われており、かつストレスを極力回避する生活を心がけているので、“ハゲ頭”になる心配はしていないのだが、妻は私の“将来”を楽しみにしているらしく、時々自転車で外出している私に次のようなメールを送ってくる。

「今日は風がきついね。ズラは飛んでないズラか?」

 これに対し「まだズラとちゃうわ!」と私は返すのだが、内心では「見てろ~!」と、黒髪白髪を問わず毛根の奮起を促す気持ちになるのである(主人の思いは毛根には伝わらないだろうが)。

 先の本の著者、近藤誠さんは医師だから専門的見地から見解を述べておられるのだが、素人考えで言っても、頭皮はシャンプーなどつけて洗いすぎない方が、つまり自然に近い形で放っておく方が、髪は残りそうな気がする。二日に一回の洗髪で、自分の身体(頭)で実験してみて、十年後、二十年後に同年代の友人・知人と会った時にどう感じるだろうか……その時、“負け”を確信して会いたがらない自分になっていないことを祈るばかりである。

(2016年5月31日記)

2016年5月30日 (月)

人間ってそんなに大差ないな

 私が立派だなあと思う女性の一人に、林文子さんがいる。現横浜市長で、もともとは自動車販売会社など幾つもの企業のトップを務めた経歴の持ち主である。ビジネスの世界や政治・行政の世界でバリバリ働きたい女性にとっては、一つのロールモデルと言ってもいいだろう。

 そんな林文子横浜市長の、1か月ほど前の発言には驚かされた。先月27日にメディアで報じられたが、2020年東京五輪・パラリンピックのエンブレムのデザイン4案につき、庁内会議で「あまりのダサさに驚いている」と酷評した、というのである。時間を置かずに林市長は、「軽薄な言い方だった。(デザインを)否定したわけではない」と釈明をされた。しかし、かつて一度決まったエンブレムが白紙撤回され、広くデザイン案を募って絞られた最終候補に外野からケチをつけるというのは、五輪・パラリンピック関係者の努力や苦労への配慮がない発言だと私には感じられた。

 いや、もっとストレートに書けば、私はこの発言、失言にがっかりしたのだ。林文子さんには何冊も著書があり、文章から考え方やお人柄を知ることができるが、横浜市長への就任後に著された『共感する力 カリスマ経営者が横浜市長になってわかったこと』(2013年発行、ワニブックス)には、とても立派なことが書かれている。


“共感”または“おもてなし精神”とは、相手の気持ちに寄り添うことであり、ビジネスの世界だけでなく、すべての人間関係において欠かせないものです

《私は会議の際も、庁舎内で誰かとすれ違うときも、職員一人ひとりに声をかけ、相手の立場を尊重し、相手の気持ちに寄り添うことで“共感力”を肌で感じてもらうようにしました》

(『共感する力 カリスマ経営者が横浜市長になってわかったこと』(2013年発行、林文子著、ワニブックス))

 そんな林さんを私は理解したつもりでいたので、“共感”が微塵も感じられない先の失言には、驚きに加え失望を禁じえなかった。つい口から出た言葉というのは、本音であることが多い。そのうちに私は、こんなことを思うようになった。

「根っこの部分では、人間ってそんなに大差ないな」

 
社会的地位が高かろうが、周囲の尊敬を集めていようが、大抵人間は、ドロドロとした刺々しい心の声を内では発しているのだと思う。それを理性や知性でもって封じ込め、善人ぶっているのだ、演技をしているのだ、と言えなくもない。人はそれにより、可愛い自分への評価を高めたいのだ。

 あぁ、かく言う私も善人ぶっていると思う。人の言動の不味さを取り上げ、もっともらしさを強調して吐く自分の言葉は、そのまま自分に跳ね返ってくる。私がもし心に浮かんだことをブログにそのまま書き連ねれば、所謂“炎上”のようなことになるか、無視されて誰も読まなくなるに違いない。だから、ズルい私は、人に本音を明かすまい、余計なことは口にするまいと肝に銘じて生活をしている。

(2016年5月30日記)

2016年5月29日 (日)

将棋棋士・渡辺明二冠の“最善手”

 私の好きな将棋の世界でちょっとした動きがあった。『叡王戦』という新設のトーナメント戦を勝ち抜いたプロ棋士と最強の将棋ソフトが二番勝負を行なう『第1期電王戦』において、山崎隆之叡王(八段)が将棋ソフト「PONANZA」に連敗を喫した。すでに過去何人もの棋士が将棋ソフトとの真剣勝負に敗れていることや、今春、囲碁で世界トップ棋士と言われるイ・セドルさん(韓国)が人工知能(AI)囲碁ソフト「アルファ碁」に1勝4敗と負け越して、コンピュータソフトの強さが社会に広く認知されたこともあり、人間側が完敗した『第1期電王戦』の結果は世間の耳目を大きく集めるニュースとはならなかった。

 早速、次回行われる『第2期叡王戦』、『第2期電王戦』についての告知が、日本将棋連盟のホームページに掲載された。そこに《羽生善治九段が初エントリー》という注目の一文があり、将棋ファンの私は「ついに……」と思った。長年将棋界のトップとして君臨してきた羽生四冠(名人・王位・王座・棋聖)と進化を遂げてきた将棋ソフトのどちらが強いのかは、将棋ファンにとって非常に大きな関心事であり、是非その歴史的な対局を見てみたい、と思ったためだ。『第1期叡王戦』にはエントリーしなかった羽生四冠だが、『第2期叡王戦』で優勝すればその対局が実現するので、大きな道が拓かれたと言える。

 一方で、羽生四冠と並ぶトップ棋士の一人、渡辺明二冠(竜王・棋王)は前回に続き『第2期叡王戦』にエントリーしなかったことが分かった。『叡王戦』はエントリー制なので、参加・不参加は棋士の自由だが、今回の不参加につき、渡辺明二冠は自身のブログ(『渡辺明ブログ』)で22日と23日の二日にわたり、次のようなコメントを掲載された。

【電王戦。】(522日)

叡王戦は第2回も出場しません。昨年と同じく、自分で決めたことです。

出ない理由をここで長々と書くことはしませんが、タイトル戦との兼ね合い等、おおむね皆さんが想像するようなことです。羽生さんの出場には私も驚きました。》

《【続・電王戦。】(523日)

叡王戦について昨日のだけでは物足りないかもしれませんが、全ての方向にいい顔をするのは不可能なので発言が難しいです。タイトルを持つような立場になれば、出る、出ないのどちらを選択してもメリット、デメリットはあります。それを細々と書き出したら長くなりますし、叡王戦の出場については各自の立場、判断が違う上に持論を展開する気もないです。

この話題についてはひとまず終息としますが、ご了承ください。》

 私はこの文章で説明は充分だと思った。将棋連盟が《羽生善治九段が初エントリー》と謳ったため、「では渡辺二冠はなぜエントリーしないのか?」というファンの(潜在的な)疑問に対し、説明をしなければとお考えになったのだろう。政治資金の私的流用疑惑が表面化した舛添要一都知事のような“説明責任”が、渡辺二冠にあるわけではない。応援する棋士に何でも明らかにしてもらわないと気が済まないファンや関係者も世の中にはいそうだが、全員が全員快く受け止められない説明になると予め分かっていれば、「詳細な説明はしません(できません)」という説明でよいと思う。

 渡辺二冠は長年にわたり個人のブログを続けてこられた方で、将棋棋士のブログでは嚆矢と言っていい存在である。将棋のPRの他、棋士の普段の生活や考え方などを披露されてきたわけだが、今回そのブログは、『叡王戦』不参加について言葉を選びながらコメントする場となった。タイトルホルダーとして、ファンにも既存のスポンサーにも気を遣わざるをえない難しい局面において、“ブログ”という持ち駒を使って“最善手”を指した、という印象を私は受けた。熟慮の上の見事な一手だったと思う。

(2016年5月29日記)

2016年5月28日 (土)

ネットが震撼?

 昔の人は「日本語の乱れ」などとよく言ったが、人生の約半分が経過した私も、たまに違和感のある日本語に注文をつけたくなる時がある。23日にネットに現れたニュースの見出しがまさにそれだった。こう書かれてあった。

1世帯の平均貯蓄額「1805万円」にネット震撼》

 「ネットが震撼?」とすぐ疑問に思った。手元の広辞苑を引くと、“震撼”とは「ふるえ動くこと」の意とある。ネット(というバーチャルな空間)がふるえ動く、というのがしっくりこない上に、身の毛もよだつ凄惨な殺人事件が起きたというならまだしも、平均貯蓄額の金額でふるえるというのも理解に苦しむ。実際は単に、この金額についてネットで反響が大きかった、というだけのことではなかっただろうか。

 私の感覚では、このような「~が(に)震撼」というような言葉遣いは誇大、過剰である。ネット利用者の関心を惹きつけ、閲覧数を増やしたいがために煽ろうとする、発信者のビジネス的な意図が透けて見える。他にも、「~に騒然」、「~が驚愕」、「~が絶賛」といった人目を引く表現がネットでは散見されるが、同じような不自然さが感じられることが多い。

 冷静に振り返ってみると、私自身も《1世帯の平均貯蓄額「1805万円」にネット震撼》を見て、見出しをダブルクリックし、内容まで読み込んだから、発信者の術中にはまってしまっている。もういっそのこと、「こういう言葉遣いをする記事の発信者は愚かだ(或いはずるい)」と小馬鹿にしてクリックしない位にならないと、大して深い意味のない情報に振り回される生活からは完全には脱却できないのかもしれない。

(2016年5月28日記)

2016年5月27日 (金)

人間は囚われの生き物

 昨日取り上げた『解毒 エホバの証人の洗脳から脱出したある女性の手記』(坂根真実著、角川書店)を読了して、改めて強く認識したのは、「人間は囚われの生き物だ」ということである。結論を先に書くと少し飛躍気味なので、丁寧に書いてみよう。坂根さんによると、エホバの証人は“白黒思考”が鮮明だという。

《エホバの証人の信者と話していると、話題のすべてが白黒思考で片づけられてしまうので、とにかくイライラするのだ。すべての事象について「白か黒か」「ゼロか百か」「神様か悪魔か」という判断をして片づけてしまうのだ。その世界に「グレーゾーン」はない》

(『解毒 エホバの証人の洗脳から脱出したある女性の手記』(2016年発行、坂根真実著、角川書店))

 エホバの証人では、「人生で成功すると神様のおかげ」「失敗すると悪魔の仕業」とも教えているという。カウンセリングの世界では、こうした白黒思考は、認知の歪みの一つと捉えられている。私たちの一般的な見方からしても、これはまさに洗脳された結果であって、私たち自身はバランスの取れたものの見方・考え方をしていると思いがちだと思う。が、果たしてそう明快に言えるだろうか。

 経済を担う企業も個人も、政治の世界も、“経済成長”を続けなければ未来が暗いような言い方をし、私たちに“もっと頑張って活躍するように”とあの手この手で迫ってくるが、こうした見方、私にはすんなりとは受け入れがたい。生物学者の池田清彦先生が昔、こんなことを仰っている。

《ヒキガエルは幸運であれば十年ちょっと生きるが、一年の間に五十五時間しか労働(生きるためにエサをとること)しないという。(中略)必要以上に働く動物は人間以外には余り見られない》

(『正しく生きるとはどういうことか』(1998年発行、池田清彦著、新潮社))

 これは労働のあり方に関する文章だが、私も、人間はもっと怠惰で気ままであることが自然なあり方だと思う。そうではなくて、社会の風潮として見られる、「頑張ること」「活躍すること」「経済成長すること」は当たり前というのは、囚われている考え方ではないかと感じてしまう。エホバの証人とは程度の違いは大きいが、考え方に柔軟性が欠けている点は似通っているところがある。

 普段私は、「殆どのことは疑いうる」、「ゼロベースで考える」ことを重視しつつ生活している。その視点から俯瞰すれば、人間は囚われの生き物に思えて仕方がない。こう偉そうに(?)書いている自分にも、実は大きな矛盾がある。私は「囚われるな」という考え方に囚われている、とも言えるのだから。

(2016年5月27日記)

2016年5月26日 (木)

直感は当てになる

 私は類書が見当たらないノンフィクションに強く惹きつけられるところがある。昨日読んだ『解毒 エホバの証人の洗脳から脱出したある女性の手記』(2016年発行、坂根真実著、角川書店)もそうした一冊だった。内容だが、両親の強い影響を受けて、エホバの証人に入信した著者が、大変な経験、人間関係を経て一般社会に復帰していく過程を記したものである。

 昔私の実家の近くに、エホバの証人の施設(王国会館という表記)があったことから、これがキリスト教の一派だという認識はあったが、カルト宗教と言われていることや、具体的な教義及び布教活動の様子については、本を読むまで知らなかった。実はそれほど怪しい宗教だとは思っていなかったのだが、苦悩、苦労が綴られた坂根真実さんの半生から、人の人生を狂わせかねない危険なものだと理解できた。

 本に記されていることだが、坂根さんは同じエホバの証人の信者と二度結婚している。同じ宗教ならば夫婦関係は上手くいきそうなものだが、二度とも夫からDVを受けて離婚。これは実は、単に“男運が悪い”では済まされない状況を、エホバの証人の狭い世界が作り上げていた結果だとも言え、私には坂根さんが大変気の毒に感じられた。

 坂根さんが述懐されているが、結婚する前の時点で、夫となる男性に気になる点があったという。“直感”という表現が使われているが、初婚の相手は、初めて会った時に《オーラが暗いことが気になり》、再婚した人については、《異性として意識する相手ではない》と感じたという。結局は、この直感をやり過ごして結婚に踏み切ったことが裏目に出てしまうのだが、私はここに結構大切な教訓があると思った。

 私自身過去に、一目惚れして気持ちを打ち明けたにも関わらず、一生を誓うまで先へは交際が進まなかった女性がいたが、その時は不思議と「この女性とはうまくいきそうにない」という直感が働いてブレーキをかけた。現在の妻との間では、そのようなネガティブな直感は働かなかったから、あの時のブレーキの判断は正しかったと今でも思っている。

 統計的なことは何も言えないが、男女の間における直感は当てになることが多いのではないだろうか。特に女性は気づく力が高いから、外見や容姿を気に入って近づいてきた男性に対し、直感的に違和感を覚えることがかなりあるのではないか、そしてそれは懸念すべき男性の問題点を突いているのではないか、と私は想像する。そうした時に、無理に理屈をこねて「この人と結婚しよう」と自分を説得するよりも、直感に従って人生の選択をした方が、案外上手くいくような気がする。

 
もちろんその結果、いい人となかなか巡り合えないまま時間が過ぎていくこともありうる。が、もし“直感”続きで一人の生活が長くなったとしても、それはそれでいいのではないかと思う。合わない人とは、一緒に生活するだけで大変だからである。

(2016年5月26日記)

2016年5月25日 (水)

沖縄女性死体遺棄事件に思う

 また沖縄で、米軍基地が絡んだ凶悪犯罪事件が起きた。沖縄における子どもや女性を狙った犯罪は、私が子どもの頃から繰り返されているように思う。私には沖縄に親類縁者がいるわけではないが、強い憤りを感じた。翁長雄志知事の怒りはもっともであり、「米軍基地があるが故の犯罪」という指摘はその通りである。

 太平洋戦争時、本土を防衛するために捨て石にされた沖縄には現在、在日米軍の75%が集中していると言われ、今も過重な負担を負わされている。東京が地方を支配する構図の典型が沖縄と言えるだろう。一抹の後ろめたさはあるかもしれないが、政府主導の“弱いものいじめ”が今も続いている。そうした中で起きた陰惨な事件である。

 
私が最近読んだ本に、『イギリス、日本、フランス、アメリカ、全部住んでみた私の結論。日本が一番暮らしやすい国でした。』(2014年発行、オティエ由美子著、リンダブックス)がある。あるページに人口10万人当たりの殺人件数がたまたま載っていたのだが、日本が0.3件であるのに対し、米国は4.7件となっていた。数字を単純に比較すれば、米国では日本の15倍超の密度で殺人が発生している計算になる。

 
米軍基地が存在するということは、こうした高い頻度で殺人事件が起きうる土壌を内に抱えこんでいる、ということである。沖縄の地域社会が抱える不安の大きさが、この数字から分かろうというものだ。この種の事件が起きるたびに、「再発防止策」という紋切り型の言葉が登場するが、巨大な壁でも作って県民と米軍関係者が分け隔てられた空間で生活しない限り、また同じことが繰り返されるだろう。

 先に挙げた本によると、米国のテレビは、世界の出来事などのニュースをあまり拾って流さないという。硬い新聞と違い、テレビは“内向き”のメディアであるらしい。そうすると、ただでさえ米国内で殺人事件が多いなかでは、日本で米国人が起こした一つの殺人事件が大きく報道されたりはしていないのかもしれない。米国民の多くが知りもしないとすれば、由々しきことである。

 日本の安全保障と直結している沖縄の基地問題。現状を変更するのは極めて困難に違いないが、私には沖縄に寄り添いたい気持ちがなぜか強くある。私は死刑制度には反対の立場だが、米国側に沖縄の怒りをしっかり認識してもらう効果も見越して、今回の犯人への刑罰については、日本の司法に“極刑”という英断を望みたい……ここまで思うのは行き過ぎだろうか。

(2016年5月25日記)

2016年5月24日 (火)

IT音痴の嘆き

 21日夕方のこと。家のパソコンの画面に突然、「あと9分でWindows 10へのアップグレードを開始する」旨の表示が現れているのに気付いた。これまで何度もアップグレードを推奨する告知を目にしてきた。それとは趣が違っていたが、アップグレードのニーズがないので、マウスで右上をバツ閉じした。すると、実際に9分ほどしてパソコンの電源が落ち、その後アップグレードが始まってしまった。

 これはもう触りようがないと思い、暫くパソコンを放っておくことにした。マイクロソフトにより勝手に進められたアップグレードについての不満や苦情のコメントがネット上で増えつつあるのは分かっていたが、まさか自分の身に降りかかるとは思っていなかった。「余計なお節介はしないでほしい」といったネガティブな感情がむくむくと湧いてきた。

 私はこの日、パソコンで終わらせるべき大切な作業はなく助かったが、「○日の□時まで」といった形で期限を切られた仕事をしていた人は、大変な迷惑を被っただろうと思う。Windowsのパソコンユーザーにそうした影響が出ることは容易に想像できるため、マイクロソフトはよくも強引なアップグレードを進める意思決定ができたものだと思う(下手をすると損害賠償請求訴訟を提起されかねないだろう。日本人は穏やかだからなめられたのかもしれないが)。

 大きな影響はなかったとはいえ、私もちょっと困ったことにはなった。1、2時間ほどしてアップグレード自体は無事完了したのだが、ネットワークの設定方法が分からなかったので、ネットに繋がらないパソコンになってしまった。我が家にはスマホがないため、こういう場合にどう復旧すればよいか、ネットで調べることができない。そこで、無線LANの機器が入っていた箱を取り出し、BUFFALO(バッファロー)というメーカーの問い合わせ窓口に電話をすることにした。本当は機器の不具合や故障ではなく、マイクロソフトに原因があるのだが、仕方なくすがることにしたのである。

 23日(月)の朝早くに電話をかけたが、週明けのせいかなかなか繋がらない。辛抱強く待つこと十数分、ようやく担当のオペレーターに相談することができた。ラッキーなことにその方は親切で、わかりやすくナビゲートしてくれ、すぐにネットを閲覧できるようになった。BUFFALOに感謝!である。

 今日は最後に私の言い訳を一つ。ここ数日間、ブログの更新が遅れ気味だったのは、ひとえにこのアップグレードのせいでした。IT音痴の嘆きは、以上でおしまい。

(2016年5月24日記)

2016年5月23日 (月)

再び“みじめさ”

 今月16日だったと思うが、朝、目を疑うような光景に遭遇した。埼玉県内のある駅の近くで、衆議院議員の枝野幸男さんが街頭演説をしていた。ただ、私の目には異様に映った。聴衆が一人もいないなか、ただ一人立って、今春新たにスタートした民進党について話をしていたのである。

 
枝野幸男さんといえば、一時は政権を担っていた民主党の時代から幹事長を務めた御仁である。そういう実績ある先生が、誰も耳を傾けない演説をしている。これも見方によっては、“みじめ”である。大きな駅ではなかったが、駅の規模のせいではなかったと思う。駅前に人の流れは確実にあったが、誰も足を止めなかったということである。ひと昔前であれば、人だかりができて、握手を求める有権者もいただろうに……。誰も聞かないという点では、売れない路上ミュージシャンと変わるところがなかった。

 その日私は用事があって、枝野さんの姿を横目に認めながら先を急いだが、心に感じるものが生じた。裸一貫からやり直す、といった表現が近そうだが、野党転落の悲哀を真っ向から受け止めて一人路上に立ち続ける姿勢は、大したものだとも思えたのである。民進党がどれほどの政党に成長するかはまだ何とも言えないが、枝野さん個人について言えば、みじめさをあざ笑うどころか、期待したい、応援したい、という気になった。

(2016年5月23日記)

2016年5月22日 (日)

見事な形容

 山のように政治資金の私的流用疑惑が表面化した舛添要一都知事については、「せこい」、「見苦しい」、「恥ずかしい」といった見方が有権者から聞かれたが、舛添知事の現況につきマスコミに意見を求められた石原慎太郎・元都知事が、ひと言、見事な形容で評した。

「みじめだなあ」

 何とぴったりした表現であろうか。都知事OBというよりも、作家の片鱗が窺えた切れ味抜群のコメントであった。

 昨日のブログで私は、舛添知事の今後の身の振り方が見通せない旨を書いたが、少し見えてきたような気がする。二度目となる20日の記者会見において、「厳しい第三者の専門家の公正な目で調査してもらう」と繰り返されたのをよくよく考えると、近いうちに次のような趣旨のことを仰るのではないか、という気がしてきた。

「厳しい第三者の専門家の公正な目で調査して頂いた結果、今般の疑惑、疑念を払拭できる材料が見当たらなかったため、都政の停滞・混乱を招いている点も鑑み、辞任することを決意致しました」

 ポイントは、自分の犯した行為を自分とは切り離して外部化し、それを専門家が評価するという構図を作り、それに依った結果、辞任せざるをえないと判断した、とすることである。自分が間違ったことをしたと全面的に非を求めて辞任するのではない。あくまでも、第三者に調べてもらったら不味いことをしたと判断された、という他人事のような体裁をとるわけである。

 この手法をとることで、説明責任を果たしていないと批判されてきた具体的な点につき、回答しないまま一件落着にできる効果も期待できる。例えば、家族と過ごしたホテルで行なったという重要な“会議”について、何人が参加したのか、どれくらいの時間を要したのかといったことを(知事が記憶していないはずがないと思うが)、回答せずうやむやに済ませるメリットがありそうである。

 都知事の記者会見は定期的に開催されるそうだから、今のままではみじめな状況がずっと続くことになる。それはさすがに耐えられないのではないか。二度目の記者会見での受け答えには誰の目にも中身がなかったが、舛添知事には、自らの非を真摯に認めない形での辞任へのレールを密かに敷いたところに意味があったということだろう。

(2016年5月22日記)

2016年5月21日 (土)

舛添都知事騒動に驚かず

 舛添要一都知事の、政治資金の私的流用疑惑が噴出して収まる気配が見えない。東京都民以外は基本的に関係がない騒動だが、舛添都知事はマスコミに完璧に食いつかれて、もはや辞職の意向を示さないと振りほどけないような状況になっている感じがする。

 私は今や都民ではないから熱くコメントする理由を持ち合わせていないが、実は今回の騒動には全く驚かなかったし、失望もしなかった。若くして国際政治学者として売り出していた頃の舛添さんの言動から、“頭が良い”、“やり手”、“押しが強い”、“目立ちたがり屋”、“地位や名誉欲が旺盛”、“お金にはルーズ”といった人物像が私のなかには出来上がっていた。加えて、「色々問題が出てきても、それを上回る仕事をすればいいだろう」という楽観的な考え方がにじみ出てもいたから、“失策”が出てくるのは私には想定の範囲内だった。

 振り返ってみると、猪瀬直樹前都知事の後継を争った都知事選で、舛添さんとは真逆の有力候補者がいた。宇都宮健児さんである。かつて弁護士として、社会問題化していたサラ金事件に真っ向から取り組み、後に日本弁護士連合会の会長を務めた方で、清廉さで言えば舛添さんとは比較にならないほどクリーン。ただ、知名度や見栄えといった点で舛添さんに及ばなかった印象がある。

 私は先の都知事選で、有権者はこうした候補者の“人物鑑定”を終えて投票したとばかり思っていた。舛添さんと宇都宮さんの対比で言えば、有権者は清廉さよりも知名度や手腕(期待)を選んだのだなと理解していた。だから、舛添知事をひたすら糾弾する社会の風潮には素直に乗っかる気にはなれない。あの選挙戦の時すでに、人物像は透けて見えていたではないか、と思うのである。

 
20日の記者会見で舛添知事は、自らの進退について辞職を否定した。これも私には想定の範囲内である。そう簡単に都知事の椅子は捨てられないのだと思う。分からないのは次の点。ネット社会になり、日本では世間が人を裁く流れが強まっているが、今後舛添知事が世間に屈して辞任に傾くことになるのか、それとも常人にはない頑張りを見せて在任期間を全うするのか、そこのところは私には見通せていない。

(2016年5月21日記)

2016年5月20日 (金)

その時に考える

 『きょうだいリスク』(平山亮・古川雅子著、朝日新聞出版)という本を読んだ。“きょうだいリスク”は私には新語だったが、意味するところは副題の「無職の弟、非婚の姉の将来は誰がみる?」を見て理解できた。具体的には次のようなことが記されていた。

《格差社会のリアルは、「親亡き後」のフェーズに形を変えて押し寄せてくる。

 ・その時になって、きょうだいを支え切れるのか?

 ・きょうだいを支えるべきなのか?

 ・そもそも、自分自身が支える側に回れる余裕はあるのか?》

(『きょうだいリスク』(2016年発行、平山亮・古川雅子著、朝日新聞出版))

 私は少し昔のことを思い出した。私が勤め先の会社を辞める時、兄と電話で話をしたことがある。兄は先行き不透明に見える私の将来について幾つか忠告を並べた後で、次のような締めの言葉を発したのだった。

「俺は余裕がないから、お前の世話はできないからな」

 酷いセリフだな、というのが当時の偽らざる気持ちだった。こちらから世話を頼んでもいないのに、そんな話題を持ち出してもいないのに、数十年後を見越して“突き放す”という布石を打ってきたのである。後に、兄の発言の裏にある事情が見えてきたので、失望や怒りといった感情は抱かなかったが、私ならこんなこと口にはしないなという感覚は今も残っている。

 もっとも、私も心の底で兄と似たような結論を持っているから、兄を非難することはできないと思っている。将来逆に、兄が私に援助を求めることも100%ないに違いないが、そうなったとして私が出動することもない。そもそも、昔から『きょうだいは他人の始まり』と言うではないか。私は、大橋巨泉さんの考え方に強く感化されたところがある。

《父親は、徹底した個人主義者で、実存主義的な人生観の持ち主であった。「親子や兄弟は偶然の産物だ。オレは大橋家に生まれたくて生まれた訳じゃない。だから兄弟は他人の始まりだ。そこへ行くと女房や友人は、オレがオレの意志で選んだ。オレにとって一番大事なのは妻や友人だ」という考え方は、のちに大学で読んだサルトルやカミュと共通項があって驚いたものである》

(『どうせ生きるなら』(2006年発行、大橋巨泉著、角川書店))

 巨泉さんの考え方が私の基本線になっているが、実は、心のどこかでもう一つの回答を用意している自分もいる。それは、きょうだい間の支え合いについては、“その時に考える”というものである。数十年後に自分がどういう状況にあって、どういう気持ちになっているか、今の段階で決めつけることもなかろう。だから、“その時に考える”ということでいいような気がする。

(2016年5月20日記)

2016年5月19日 (木)

女子力アップ?

 以前、短期の仕事の職場でこんなことがあった。私と同年代か少し年上と思われる小太りのお話好きな女性が、周りに向かって話しかけていた。

「やっぱり私たちも、女子力アップしなきゃね!」

 話の流れは一切分からなかったが、語気が強かったためだろう、この一文だけは強烈に頭に残った(それでブログのテーマ候補になった)。

 午前の仕事が終了。お昼休憩に入って暫くすると、お弁当を食べた彼女はまたも周囲の人たちを巻き込みながら、「これ、美味しいよね」と甘いお菓子を頬張り始めた。動きの激しい彼女は目立ち、私の関心の的になっていたが、ここに至って私の思考回路は「???」といった感じになった。

「そんなものバクバク食べていたら、女子力高くなるわけないでしょう」

 体重や体型をことさら強調するつもりはないが、“女子力”が、異性アピールも含めた女性らしさを意味するとすれば、余計な間食はマイナスに働くに違いない。「そんなんじゃ、女子力アップなんて無理ですよ」と私は思ったわけだが、口は災いの元。何も言わなかった。

 夕刻、仕事の帰り際、この女性と挨拶を交わした時のこと。彼女は「これどうぞー」と言って私の手を掴み、キャンディを2つ掌の中に押し込んできた。あっという間のことで、拒むことができなかった。彼女はすぐにその場を立ち去り、私はキャンディを握ったまま取り残された。この強引さも“女子力”からかなり乖離している。キャンディを食べない私は、家に帰って仕方なくゴミ箱に捨てたのだった。

(2016年5月19日記)

2016年5月18日 (水)

妻のストックタイム(続)

 同窓会の翌日の夜、妻は食後のデザートの“解禁”に動いた。狙いは、冷凍庫に備蓄してあったハーゲンダッツである。ちょっと工夫をして打診してきた。

妻:「この間こっち(関東)でも地震があったけど、冷蔵庫がやられてアイスが溶けたら後悔するでしょ? 早く食べておかなきゃ」

 妻は停電の可能性を絡めてきたのだ。そこまで言うならとオーケーしたが、大切と思った条件を一つ付けてみた。いよいよ態度をはっきりさせる時が来たと思った。

私:「じゃあ食べよう。でも、ストイックタイムは続けるからね」

妻:「もーさんタイムも終わらないよ、一生!」

 そんな交換条件あるかと思ったが、私はこれからも、妻の脚がカモシカかインパラになるのを目指して揉み続けることになりそうだ。私の腕が筋肉で盛り上がっていたら、それは毎晩、手を抜かず妻を揉み続けてきた証……。もーさんは大変なのである。

(2016年5月18日記)

2016年5月17日 (火)

妻のストイックタイム

 妻の同窓会の前日、体重やらBMIやら体脂肪率やらを二人で計測した。結果はというと、1カ月前と比べて妻の体重は○キロ減。殺されかねないので具体的には書けないが、痩せたと胸を張るにはちょっと微妙な数字であった。

 酷い姿を同窓会で見せられないと思った妻は、1カ月以上前から毎日家で、嫌々ながら腹筋と背筋のトレーニングをやってきた。私は、妻の足が動かないよう押さえるサポート役を務めた。夜、お風呂に入る前にやるのだが、「そろそろだよ」と妻に私が知らせて促す度に、妻はこう言って嘆くのだった。

「ああ、また今日もストイックタイムかー。気がつくとすぐこの時間になってるぅ」

 そう、トレーニングするこの時間を、妻は“ストイックタイム”と名づけた。「これだけ頑張ってるんだから、結果が出ないと困るのよ」という我慢のニュアンスである。同窓会が近づくにつれ、妻は甘いものを食べるのも量を減らすなど控えてきた。

 
さて、いよいよ当日。数十年ぶりとなる同窓会が終わった夜の時間帯に、私は妻の携帯に連絡をした。どんな声で出るかとおもいきや、お酒が入ったせいもあったのか、予想外に明るかった。どうやら、再会したクラス仲間のなかで、自分が目立つ体型ではなかったということらしい。恥ずかしい思いをせずに済んだことがよく分かった。

 視点を今後に向けよう。私が今気になっているのは、“ストイックタイム”のこれからである。同窓会に照準を合わせて生活を律して(?)きた妻は既に、「これからは好きなものが食べられるわ」と口にして、気持ちを開放させている。“ストイックタイム”を続けるともやめるとも言っていない。

 今やめると体重・体型がリバウンドするに違いないと私は確信しているのだが……「ブクブクになっちゃうよ」と言って脅して続けさせるのがいいか、体重が減った最近の成果を褒め直して続ける気にさせるのがいいか、私はまだ思案中で結論を出せずにいる。

(2016年5月17日記)

2016年5月16日 (月)

自分の心の中で絞り込もう

 今月9日、『ゲスの極み乙女。』のボーカル・川谷絵音さんの離婚が報じられた。そしてマスコミ各社は、一斉にニュースとして大きく取り上げた。テレビ番組などは、視聴者に「復習してください」と言わんばかりに、ベッキーさんとの不倫騒動の流れをわざわざおさらいしたほどであった。

 その中で当の本人が、以前コンサートで、「私の一件は一般の人には関係がない。個人的なことでしょう?」といった趣旨のことをファンに語りかけていた様子がテレビで流れた。私はそれを見て、その通りだなと、部分的に共感した。今回の騒動は、せいぜいファンや音楽・芸能関係者など一部の人達としか繋がりがない。「世間をお騒がせして~」は謝罪の決まり文句だが、世間が勝手に騒いでいるだけという面がある。そういう冷めた見方が必要だと思う。

 テレビやネットでは、以上の不倫騒動のような、自分と無関係のニュースが日々量産され、更新され、私達の思考や感情、時間を奪っていく。これらのニュースは、メディアから「知っておくべき情報ですよ」という体で伝えられるが、所詮は他人がスクリーニングしたものにすぎない。そもそも自分のニーズや価値観に合ったものとは言えないのである。

 
やはり情報というものは、自分の心の中でしっかり絞り込んで、接触すべきものであると改めて感じられた。でないと、余計なことで大切な自分の生活が振り回されることになる。そういうことを考えさせられた川谷さんのコメントであった(私も今回は少し振り回されたかな?)。

(2016年5月16日記)

2016年5月15日 (日)

日本政治の後進性

 少し前のことだが、米大統領選の候補者が、共和党はドナルド・トランプ氏に、民主党はヒラリー・クリントンさんに絞られた。両者の決戦になれば、最終的にアメリカ国民は消去法でヒラリーさんを選ぶのではないかという気がするが、その場合も日本としては、素直に歓迎できないだろう。民主党は伝統的に中国を重視しており、貿易政策は保護主義的でTPPには反対のようだから、日本との関係がより良い方向に向かうのか疑問に思えてしまう。

 ヒラリー・クリントン大統領が現実のものとなった場合、浮き彫りになりそうだと感じることがある。それは、日本の政治に女性リーダーが生まれない後進性である。海外ではこれまでに、マーガレット・サッチャー(英)、アンゲラ・メルケル(独)、朴槿恵(パク・クネ)(韓)など、女性トップが誕生している。海外に倣うことが必ずしもいいとは思わないが、日本で女性の首相候補は誰かと言われても、一人も名前が浮かばないのが実情であろう。古くは、土井たか子さん(故人)のようなやり手で期待された女性政治家もいたが、今は保守的な自民党政権が蘇って、時計の針が戻ってしまった感がある。

 そう考えると、政治家の家系に生まれ育った安倍晋三首相が女性の活躍推進をぶち上げているのは、お題目を唱える域を出ていないのではないかと、私は皮肉りたくなってしまう。遠くない将来、自民党から女性首相が誕生するような布石を打っていれば別だが、そうでなければ国を挙げての女性活躍推進とは言えないのではないか……。アメリカ大統領選の推移を見ながら、そんなことを考えた。

(2016年5月15日記)

2016年5月14日 (土)

将棋も英才教育の時代!?

 私は毎年5月の連休に、NHKの小学生将棋名人戦を楽しく観ている。小学生といっても、テレビ放送のステージ(ベスト4)まで勝ち進むのはアマ五、六段の実力の持ち主ばかりだから、その真剣勝負は大人でも十分に堪能できるレベルにある。

 今年は5月1日に、4月17日に行なわれた『第41回小学生将棋名人戦』の準決勝・決勝の模様が放送された。今回は過去最多となる2,763人の小学生が参加したとのことだが、準決勝・決勝を観ていて、例年にないちょっとした変化を感じた。それが、『将棋も英才教育の時代!?』である。

 
頂点に立ったのは、大分在住の市岡真悟(まさと)くんで、なんと小学4年生だった。準決勝、決勝共に対局相手は6年生だったが、危なげない見事な勝ちっぷりだった。番組では、市岡くんが将棋に取り組んでいる日常も紹介されたのだが、次のような驚愕の内容が明かされた。

 ◇幼稚園の年長で駒の動かし方を覚えた。

◇本棚には数百冊の将棋の本が並んでいる。

 ◇タブレット端末でプロ棋士の棋譜を研究している。

 ◇将棋の勉強量は1日平均9時間。

 ◇9歳にしてあらゆる定跡に通じている。

 市岡くんは月に数回、アマ屈指の強豪で知られる早咲誠和さんから、“特別トレーニング”も受けており、今回の対戦相手の特徴も把握済みだったというから驚きである。また、準決勝で敗れ3位になった名古屋在住の渋江朔矢(さくや)くんも、杉本昌隆七段の将棋研究室に通って、一門のプロ棋士の卵たち(奨励会員※)に交じって指しているという。小学生の将棋の世界はもはや、<将棋が大好き⇒全国制覇>という単純な図式は通用せず、<将棋が大好き⇒専門家の特別な指導を受ける⇒全国制覇>という道筋が必要な時代になったことを実感した。これは<才能+努力>で足りた時代から、<才能+努力+環境>への移行と言ってもいい。

※)テレビには、中学生棋士誕生が期待される藤井聡太三段の姿が映っていた。

 テレビに登場した4人の小学生のうち、渋江くんは奨励会を受験する予定というし、優勝した市岡くんもプロを目指す可能性が高い印象を私は受けた。今年の第41回大会は、後にプロ棋士が何人も誕生する“当たり年”になるかもしれない、まだ4年生の市岡くんは、羽生善治名人、渡辺明竜王の系譜を継ぐ大棋士になるかもしれない……そう思うと、私は耄碌するまでこの先数十年、将棋ファンをやめられそうにない。

 今日は、大会が終わった後のことを書いて締めとしよう。市岡くんが早咲誠和さんに「おかげさまで優勝できました」と電話で報告をした時の、早咲さんのねぎらいの言葉が印象的であった。将棋の英才教育を物語る象徴的なワンシーンであった。

「そうですか。でも当たり前やな。当然やろ。あれだけ勉強したもんな。あなたが日本一勉強したということですよ。また勉強しましょうね。おめでとうございました」

(2016年5月14日記)

2016年5月13日 (金)

仕事のやりがい

 今春デビューした新社会人は、どのような思いで仕事をしているのだろうか。ゴールデンウィークで心身共に一息ついて、今はまた日常に戻り緊張しながら突っ走っていることと思う。連休中に、思い描いていた職業観と現実の仕事とのギャップなどについて、ふと考えた人もいるかもしれない。時間に余裕ができれば、不思議と思考が頭の空白を埋めにやってくるものである。「自分がやりたい仕事とは違ったなあ」などと……。

 これは仕事のやりがい論に通じるけれども、私はやりがいがなくとも仕事は成り立ち得ると考えている(やりがいがあるに越したことはないが)。漫画家の蛭子能収さんが、こんなことを仰っている。

《テレビの仕事はもうかるけど「やりがい」はありませんね》
(『蛭子能収のゆるゆる人生相談』(2015年発行、蛭子能収著、光文社))

 稼ぎがついてくれば、やりがいについては割り切ることは可能、という一つの例である。そういえばこの間、私が登録している派遣会社から仕事の打診があったので、エントリーした。その仕事、やりがいゼロとは言わないが、大きいものではないと自分では思っている。でも、そこにこだわること自体がくだらなく感じられるので、基本的に実入りと拘束時間だけで私は判断するつもりである。

 収入、社会的評価、人脈、スキル、やりがいなど諸々すべてが手に入る仕事があればベストだが、現実はそう甘くはない。やりがいは求めていいものだが、あまり理想を追求しすぎると、仕事を選り好みするようになり、現実の生活に支障が出る可能性もあると思う。つまるところ、働き方については色々な考え方があっていい。しっかりした稼ぎがありさえすれば、それで十分である。


(2016年5月13日記)

2016年5月12日 (木)

近づく妻の同窓会

 8日の『カモシカとインパラ』で書いたが、妻の同窓会が近づいている。「1日に1キロ痩せなきゃ!」とか言っている。それで協力しようと思い、先日私は夕食に、豚肉の代わりに冷凍こんにゃくを使った炒め物を作った。冷凍こんにゃくなら、お腹はふくれてもカロリーは大したことがないはずで妙案である。実際味は悪くなく、妻の箸も普通にすすんだ。二人で食べながらテレビをつけ、『マツコの知らない世界』(TBS)の録画を再生したら、“カレーパン”の回だった。こういう時の妻は正直になる。

妻:「美味しそう。カレーパン食べた~い!」

私:「同窓会終わったら食べるの? 太ってもいいの??」

妻:「いいえ、食べるだけー。『もーさん』もいるし」

私:「…………」

(食後しばらくして)

妻:「髪が絡まってるみたいだから、ハサミで切って」

私:「はい、切ったよ」(と言って髪を見せる)

妻:「三本も切ってるじゃない。ひどーい。じゃあ、かりんとう1本食べよっ!」

私:「…………」

 果たして妻は痩せられるのだろうか………。

(2016年5月12日記)

2016年5月11日 (水)

早すぎるよ

 ニュースで著名人の思わぬ訃報に接し、びっくりすることがある。4月21日、米国のミュージシャンのプリンスさんが亡くなったのがまさにそれだった。私が好んで聴く曲は『U Got The Look』、『Let’s Go Crazy』、『Raspberry Beret』『1999』など数多いが、プリンスさんは学生の頃から慣れ親しんできた洋楽アーティストの一人である。

 享年57歳。あまりに若い。2009年6月25日に亡くなったマイケル・ジャクソンさんは50歳だった。ここ4、5年ほど、自分が学生時代に楽しませてもらったアーティストが若くして他界するニュースが相次いでいるように思う。ホイットニー・ヒューストン、2012年2月11日没、享年48歳。デヴィッド・ボウイ、今年1月10日没、享年69歳。モーリス・ホワイト(アース・ウインド& ファイアーのボーカル)、今年2月5日没、享年74歳。

 モーリス・ホワイトさんは若すぎるとは言えないけれど、それでも決して長寿ではない。長年に亘って現役でヒット曲を生み出せるほど音楽の世界は甘くないのだろうが、無理をしたのだろうか、不摂生がたたったりしたのだろうか、一人また一人と亡くなっていくのは悲しいものがある。

 
たまに海外から往年の大物アーティストがコンサートのために来日することがあるが、私は観には行かない。声や演奏の衰えを目の当たりにして幻滅したくないからである。そういう意味では、齢を重ねて現役を続けている姿を私は期待しているわけではない。私の頭には、こうしたアーティストの全盛時の格好いいイメージが焼き付いていて、それをずっと大切にしていたいのだ。その限りにおいて、生死は関係ないはずである。なのに、亡くなるのが早すぎるよ、もっと生きていてほしいのに、と思う自分がいる。

(2016年5月11日記)

2016年5月10日 (火)

連休中の迷惑な話

参議院議員おおのもとひろとかいう議員が近所に来て、5日(こどもの日)の午後2時40分頃から演説を始めた(聞きたくないが聞こえてきた)。連休中、休みたい人の貴重な時間を切り裂く演説で、大変迷惑であった。自分の名前を繰り返し連呼し、その前には必ず「参議院議員」と必ずご丁寧につけた。その口調は慇懃ながら、私たちに「恭しく拝聴するように」と言っているように聞こえた。

 この議員、本日は○○県内を転々と動き、国政報告に回っています、という。本当に迷惑である。繰り返し書く。ゴールデンウイークの連休中、みなのんびりしている時間に、大音量でもってどうして人の生活に土足で入り込めるのか。そういう演説をしたいのならば、時間や場所につき予め告知をして、聴きたい人だけに集まってもらい、話をすべきだろうと思う。

 
こういうゲリラ的な演説が許されると彼が心の中で思っているのは、「政治家だから許される」という傲慢さがあるためだと私は推量する。彼は最後に、「大変お騒がせして、心よりお詫び申し上げます。有り難うございました」という言葉で10分弱の演説を締めたが、お騒がせしてお詫びしなければいけないと分かっている演説ならば、最初からやらないでほしい。こういう無神経な政治家に、人の心が分かるとは私には思えない。今後私が、この先生に一票を投じることはないだろう。

(2016年5月10日記)

2016年5月 9日 (月)

病院離れ

 連休中、立て続けに健康関連の本を二冊読了した。私は病院嫌い、医者嫌いのタチではないが、これからは極力病院には行かないようにしようと心に決めた。お医者さんの手による書なので、一種の自己否定で、同業者の首を絞めかねない内容だが、それだけにかえって私は的を射ているように感じた。一冊目の本には、次のようなことが書かれてあった。

《僕は医者ですが、ここ数十年、骨折と勘違いしたとき以外は病院で検査や診察を受けたことがなく、薬も歯の痛み止め以外、飲んだことがありません。

うちには血圧計がないので、自分の血圧も知りません。

なぜなら、今の日本で大人がかかる病気はたいてい「老化現象」で、医者にかかったり、薬を飲んだりして治せるものではないからです》

《医者を40年やってきた僕が、いちばん自信をもって言えること。それは「病院によく行く人ほど、薬や治療で命を縮めやすい」ということです》

(『医者に殺されない47の心得-医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法-』(2012年発行、近藤誠著、アスコム))

 二冊目に読んだ『検診で寿命は延びない』(2010年発行、岡田正彦著、PHP研究所)も、基本的にはこれまでの常識とは真逆の本。《欧米のどの調査も結論が一致していて、総合健診や人間ドックを受けても寿命は延びない》と書かれてあった。近藤さんの本にも同様の記述があった。

 これらの本を受けて、私は病院を全否定するつもりはない。学生の頃虫垂炎に罹った時は、手術で病院に大変お世話になったし、内臓に結石ができた時は、激痛に耐えられず、救急車で病院に担ぎ込まれたこともある。その時の処置には感謝するばかりである。ただ思い至ったのは、大して自覚症状もないならば、病院に行くのはやめようということである。

 健康診断についても、私は懐疑的になった。健康診断で病気を早期に発見して一命を取り留めた人はもちろんいるだろうが、確率的に見れば、受けたからといって寿命が延びるとは言えなさそうである。ならば、あとは自分が受けるか受けないか、選択の問題だけが残る。健康診断を受けないまま、大きくなったがんが見つかった時は、じたばた闘ったりせずに、モルヒネ等で痛みだけ取ってもらうことにしよう。

 人間ドックもしかり。よくよく考えれば、予防的に人間ドックに入ることは一見賢いように思えるが、人生における“自由日数”を減らすことに他ならない。一年に一日人間ドックに費やすならば、一年の365分の1を楽しくないことに費やしていることになる。そこをよく考えないと、受診すること自体が目的化しかねない。また、いわゆる“健康寿命”を重視するならば、“自由日数”も減らさないようにするのがバランスというものだろうと思う。

 そういえば先月、現在住んでいる市から『健康診査のお知らせ』という郵便物が届いていた。まだ開封していないが、今の私の心持ちからすれば、このまま開けずに済ませてしまうかもしれない。このところ、健康のために腹筋を30回、背筋を40回こなすのを日課にしているが、適度に運動することによって健康を維持したいと考えている。

(2016年5月9日記)

2016年5月 8日 (日)

カモシカとインパラ

 ブログにネタを提供してもらったからといって、私は妻に金品を渡したことはない。しかし、サービスなら日頃からかなり提供していると自負している。妻は近いうちに同窓会を控えており、このところ体型にちょっぴりナーバス。それで体を細くするために散歩や腹筋など日々努力しているのだが、私もそれに一役買っているのだ。具体的には、二日に一度ほどの頻度で、妻の身体をマッサージしている。

 
私は本音のところで、「マッサージしても体は細くならない」と思っているのだが、妻は「痩身マッサージって言葉、あるじゃない?」と少なからず期待をかけている。そして私が足を揉むたびに、布団にうつ伏せになった顔から、「カモシカの足にして!」「インパラでもいいよ!」「もうカモシカになった?」と声をあげるのである。

 カモシカの足とインパラの足のどちらが細いのか私は知らないが、愛妻家の私は一生懸命揉んであげる。時々、「足よりもウエストを意識して細くした方が、見た目が良くなるんじゃない?」と提案するのだが、妻は「足は絶対に人から見える場所なんだから」と言って譲らない。なので、太ももとふくらはぎははずせない部位なのだ。

 妻のマッサージを始めてどれくらいの日数が経つだろうか(ちゃんと記録しておけばよかった)。私の“腕”を評価した妻は、私に『もーさん』とあだ名を付けた。“揉む”の‘も’と“藻”(←私の濃いひげを指している)の‘も’を掛けた愛称である。昼間から妻が、「今日はもーさん来てくれるの?」と甘えた試すような声で聞いてくることがある。そうなれば、夜は必ず『もーさん』の出番となる。

 同窓会が終われば、『もーさん』は要らなくなるのだろうか。それとも、今後何年も続けてほしいのだろうか。今は「もーさん大好き!」と言われることもあるため、この質問、怖くてまだ妻に聞けないでいる。

(2016年5月8日記)

2016年5月 7日 (土)

金の亡者

 ある日のこと。妻が土産話を持って仕事から帰ってきた。嬉々とした表情である。妻曰く、今通っている職場で、社員の人たちが派遣スタッフのシフトをどう組むか話し合っているのが聞こえてきた、そこに自分の名前が混じって聞こえたので、社員の人に質問をしたという。そこから話は展開する。

妻:「さきほど、私の名前が呼ばれた気がするのですが」

社員A:「ええ、言いましたよ」

妻:「では、指名料を頂きます」

社員A:「どんな店だ!」

社員B:「また金ですか!」

 この社員Bの「また金ですか!」発言には伏線があった。以前職場で、セロテープの台が壊れていたとき、社員が妻をつかまえて、思いつきのように次のように話しかけてきたそうだ。

社員A:「柏本さん、台を直すの得意でしたよね」(←得意かどうか知らずにAは言っている)

妻:「そうでしたっけ? 別料金を頂きますよ」

 このやりとりをその場に居合わせた社員Bは覚えていたので、“柏本=お金の話をすぐにする人”というイメージができていた、というわけである。社員A、Bの二人が仕事ぶりも含めて妻をどのように見ているか、本当のところは分からないが、夫の私にしてみれば、職場の一服の清涼剤として妻のユーモアを理解し笑い飛ばしてほしいという気持ちがある。

 私は今回の話を、ブログのネタに是非取り上げたいと思った。それで、「どこの会社かとかは書かないから、さっきの会話を載せたいな。読む人はきっと面白いと感じるから」と妻に切り出した。すると、上機嫌にも関わらず、妻からは“即OK”が出なかった。こう返されたのである。

「タダではやらん。ネタ代をくれ」

(2016年5月7日記)

2016年5月 6日 (金)

かぼちゃのお昼寝

 もう料理の話は終わりと思った方、ちと甘かったです(笑)。一週間程前、近くのディスカウントストアの朝市でかぼちゃを1個買いした。特売だったので、値段は198円!主婦ならば相場観があると思うが、同じ重さで比べれば、1/4とか1/2に切って売られているかぼちゃの大体半値である。

 もっともこの特売のかぼちゃ、売れ行きはそれほどではなかった。恐らく、若い世帯では一からの調理が面倒だろうし、高齢者の世帯では食べ切れない量ということで敬遠されたのではないだろうか。同じようなことは、春が旬のたけのこについても言える。4月下旬に同じ店で、1キロ位あろうかと思われる巨大なたけのこが700円台で売られていたが、買い物かごに入れる人は稀だった。

 私が買ったかぼちゃだが、実はまだ部屋の片隅に置いたままにしてあって、毎日お昼寝している。買ったはいいが、どういう料理にしようか、いつもと同じだとつまらないしな……などと考えているうちに日が過ぎていった。包丁を入れていないからまだ腐りはしないけれど、かぼちゃが目に入るたびに、「私をどうするの?」と問いかけられているような気がする。

 絵が上手ければ、この連休にかぼちゃの静物画でも描いたりできたのだが、絵心のない私には到底できない芸当である。夜の献立を考えてみるが、まだ冷蔵庫の中に先に買ったたけのこが残っているので、かぼちゃの出番はもう少し先。そろそろ本気で考えないと、折角のかぼちゃに申し訳がない気がする。

(2016年5月6日記)

2016年5月 5日 (木)

料理がつらいと思う時

 しつこいようだが、もう一日料理の話。料理をすること自体苦にはしない私だが、ここ半年ほどの間に一度だけ、つらいと思ったことがある。日中に気分が悪くなっていって、何も食べたくない、食べ物を見たくもないという感じになった。しかしその日は、妻は外出していて、夕食の準備を私がすることになっていた。この時は本当につらかった。

 あまり世の男性は強く実感したことがないかもしれないが、主婦が食事を作る大変さの一つにこれがあるのではないか、とその時思った。日に三度の食事のメニューを考える大変さ、食材を揃えて調理する大変さはもちろんのこと、自分の体調がすぐれない時にも家族のために作らないといけない大変さがあるのだ。

 気分が悪く食欲もないのだから、調理の途中で味見などする気もしない。それでも私は何とか頑張って夕食を用意したが、その時何を作ったかはもう覚えていない。「主婦って大変なんだな」という思いとともに、つらさばかりが印象に残った体験だった。

 「会社勤めをしている身だってつらいぞ」と言う向きもあろう。ちょっとしんどいからといって、仕事を休めない点は似たようなものだ。しかし、私が体験した料理の場合、炒める・焼く・煮るといった眼前の工程が必ず伴い、見たくない食材を見て、身体が受け付けたくない匂いが鼻まで来るから、逃げようがないところがある。この点、自分でペースを考えて緩急をつけられる仕事とは少し違う気がする。

 基本的には好きではないが、こういう体調不良の時のために、冷凍食品やインスタント食品があるのではないかと私は思った。どうしてもしんどい時は、家族に「今日は作れない、ゴメン」と白旗をあげて、こうした食品に頼ればいいのだ。そんな単純なことに気付いたのは、食事が終わってからであった。

(2016年5月5日記)

2016年5月 4日 (水)

忘れられない味

 昨日は若い女性の料理の腕について触れたが、“上から目線”ととられては嫌なので、バランスを取って自虐エピソードも書いておこう。先日、妻に宣言した上で、初めてのメニューに挑戦した。といっても、大層なものではない。いなり寿司である(年をとると、たまに酸っぱいものが食べたくなるわけですね)。

 レシピに忠実に、油揚げを油抜きして、口を丁寧に開け、調味料とともにお鍋で煮るところまでは順調であった。次に、酢飯を作ろうと、炊飯器から炊き立てのご飯を釜ごと取り出したところで躊躇した。その釜の中で酢飯を作るか、ボールにご飯を取り出して酢飯を作るか、で手が止まったのだ。

 妻に相談してみた。するとあっけなく、「どちらでも。釜でもいいんじゃない?」という返事。食後の洗いものを増やしたくなかったので、そのまま釜で酢飯を作ることにした。ここで“事件”が起こった。本来なら先にお酢と砂糖と塩を混ぜて寿司酢を作るべきところ、お酢を釜の中のご飯に直接かけてしまったのだ。入れてすぐに、「しまった」と気づいた。しかし、時すでに遅し。後から砂糖と塩を入れても、うまく溶けて混ざるわけがない。

 妻に通報してみた。するとあっけなく、「お湯を加えるしかないんじゃない?」という返事。言われた通りにやってみる。それで、何とか溶けるには溶けたが、酢飯がベチャベチャになってしまった。出来上がりは、いなり寿司を大きく離れ、“お酢入りお粥の油揚げ包み”となった。晴れて『噂の東京マガジン』のTry娘の仲間入りである(おじさんだけど)。あまりに不味すぎて、忘れられない味となった。

(2016年5月4日記)

2016年5月 3日 (火)

かねてからの疑問

 日曜日はよく、TBSの『噂の東京マガジン』という番組を観ている。そのなかに、『やって!Try』という料理コーナーがある。番組が有名商業施設の一角に調理スペースを設け、十代~二十代の一般女性に料理のお題を出して、その場で料理を作ってもらうという内容。料理をするのは経験の浅い若い人達が中心なので、多くの場合、食材や分量、調理法を間違えてしまい、とんでもないものが出来て笑いを誘うのがお決まりのパターンになっている。

 
このコーナーは長い年月、変わらぬコンセプトで続いているのだが、それゆえに私は一つの疑問を抱くようになった。それは、「女性ばかりに料理をさせているのに、なぜ「男女平等に反する!」といった抗議の声が聞こえてこないのか」ということである。今や料理は、女性のみに課されたものではない時代。「男性もコーナーに出て同じように料理に挑むべき」という声が聞こえないのは不思議である。

 このような問題意識(?)を持つに至ったのは、昔流れていたCMを思い出したからだ。中年以上の世代なら、次の文章を読めば記憶が蘇るだろうと思う。

《かつてハウス食品のインスタントラーメンのCMにおいて、

女「私、作る人」

男「僕、食べる人」

 という台詞が問題になってCM放送が中止になったことがありました。女が料理を作って男が食べるという「性別役割分業を定着させるもの」である、と。

 それは一九七五年のこと、つまり今から四十年近く前のことであったわけですが(後略)》

(『泣いたの、バレた?』(2014年発行、酒井順子著、講談社))

 料理を巡る男女分業が1975年の時点で既に問題視されたのに、2016年になっても、ちゃんと料理ができるかというコーナーが、女性のみをターゲットに毎週放送されているのである。なぜ世の女性は「異議あり」と声をあげないのだろうか、と思ってしまう。

 色々考えた上での想像なのだが、これはひょっとすると、男性も女性と同人数でチャレンジしたら、男性の方が総じて料理上手だったといった恐ろしい結果が出かねないせいかもしれない。若いうちは、料理経験という意味では女性にアドバンテージが特段ない気がする。そうすると、男性に軍配が上がってしまって、“洒落にならない”状況になり、それこそ番組に対して「あんなに女性を酷く見せる放送を流すのはけしからん」と視聴者から抗議が殺到するかもしれない……。

 現在の放送に世の女性が黙して寛容なのは、女性も世代毎に分断されていて、主婦層など実際に料理ができる世代からすれば、笑い飛ばせる内容だからなのだろう。上の世代の女性が若い女性の未熟さを笑って楽しむ、という構図である。それならば、抗議の声が高まらないのも合点がいく。

 もっとも、何かの拍子に風向きが変わって、男性までターゲットにされるようになれば、心臓の小さい私などは、料理の収録が頻繁に行われる商業施設には怖くて近づけなくなりそうである。

「え?、あなたは大丈夫なはず」ですって? 

そうでした。男性といえども、いい歳をしたおっさんは近くにいても、番組スタッフからお声がかからないはず。大変失礼致しました。

(2016年5月3日記)

2016年5月 2日 (月)

妻の技巧? 女性の技巧?

 「これ借りたい」と、週刊誌を読んでいる妻が口を開いた。書評欄で紹介されていたある本を読みたいと思ったのだ。しかしこの言葉は、“妻が自分で図書館に本を借りに行く”という意思表示ではない。“図書館に借りに行ってね”という私へのメッセージである。

 なぜなのだろうかと思うのだが、「この本読みたいから、借りに行って」という直接的な依頼文を妻は使わない。私が夕食を準備することになっている日もそう。「そろそろご飯作って」とは言わずに、「お腹空いたー」とか、「ペッコリン♪ペッコリン♪ペッペッペッコリン♪」と口にして、私を台所へと促すのである。

 「~したい」「~だ」という自分の願望や状況をストレートに言葉にし、婉曲的に、しかし確実に私に依頼をしてくるのだ。妻は意識していないかもしれないが、これは流儀を越えて、人を動かすテクニック(技巧)ではないか、と思うことがある。私は一旦『妻の技巧』と結論付けたが、ひょっとすると妻に限らず、広く世の女性がパートナーや家族に対して多用している技巧なのかもしれない。阿吽の呼吸で気持ちを分かりあえる間柄ならば、これは十分通用する技巧という気がする。

 今のようにブログに没頭していると、「お風呂入りた~い」という妻の声が聞こえてきそうだ。もちろんその意味は、「そろそろお湯を入れてね」である。献身的な夫として知られた(?)私は、その声がしたらすぐにお風呂場へ向かうことは言うまでもない。

(2016年5月2日記)

2016年5月 1日 (日)

人を見抜く力

 芸能ニュースに疎いせいか、私は記憶になかったのだが、X JAPANのボーカルToshlさんが長年に亘り洗脳されていたことを、遅ればせながら最近知った。知るきっかけは、ご本人の『洗脳-地獄の12年からの生還-』(2014年発行、講談社)という自伝的告発の書である。洗脳された結果、騙し取られたお金が12年間で10億円以上に上ったという。金額の大きさにも驚いたが、Toshlさんの当時の妻・守谷香が洗脳を主導した人物(MASAYA)と裏で通じ合って、罵声や殴る蹴るなど信じられないような精神的肉体的暴力を夫Toshlさんに加え続けた様子に、私は戦慄を覚えた。

 この守谷香という女性、元アイドルだったらしく、ネットに掲載されている数々の写真を見ると、当時は可愛らしい容姿であった。仕事で知り合ったToshlさんは、彼女について《おとなし気な雰囲気が逆に印象に残った》と好印象を抱いたことを本に記しておられるが、惹かれて惚れて結婚した後、悪妻どころか鬼畜と化すとは夢にも思わなかっただろう。

 結果的に見れば、Toshlさんには人を見抜く力がなかったということになるのだが、結婚して暫くしてから、彼女の人となりを冷静に見抜いた人物が近くにいた。銀行員として仕事をしていたところ、Toshlさんの誘いで事務所の経営を任されるようになったToshlさんのお兄さんである。

《次兄は直接僕に守谷に対する辛辣な言葉を並べた。

「守谷香は演技をしているだけだぞ」「自分の生きてきた銀行業界の常識では、ああいう感じの人は最も危ない」「あんな目をした女には気を付けたほうがいい」》

(『洗脳-地獄の12年からの生還-』(2014年発行、Toshl著、講談社))

 見る目がある人はいるものである。身内に分かっている人がいながら、当時の大変な状況から耳を貸すことができなかったのは、Toshlさんにとっては不運かつ不幸であったと思う。しかし一方で、私はこうも考えた(自問した)。目の前の人が本当に“演技”に徹したならば、私は真の人となりを見抜けるだろうか?

 毛色は違うが、最近読んだ別の本に、この“演技”に関連したことが書いてあった。勤め先のベンチャー企業で抜群の営業成績をあげた一人の女性(ヒロミさん)が、漫画家の柴門ふみさんにそのコツを話すくだりである。

《(一年で新卒の8割が退職した会社でヒロミさんは)新規契約獲得数で、新人ナンバーワンとなるのだ。

「水商売で鍛えてますから、笑顔で人に取り入るの、得意なんです」

そう言って彼女は、永作(博美)風にくしゃりと笑った。その笑顔に、媚びたところは全く無い。媚びなんか必要ありません、そんなもの使わなくても私は充分生きて行けますという凄みが、彼女の笑顔にはある。

「誰だって、どんな薄毛でもデブでもいいところがあるでしょう? そこを見つけて、疑似恋愛の感情を抱いて接客すると、契約はすぐ取れます。その方法を私は水商売で学んだんです。<恋愛してる>とでも思わないと、酔っ払い相手のカネ稼ぎなんで、やってられませんから」》

(『大人恋愛塾』(2015年発行、柴門ふみ著、新潮社))

 私はこの女性を恐ろしいと感じながらも、なるほどと思った。恋愛感情があるかのように演技されると、コロッといってしまうのは理解できる。その調子で、営業の人に好意を持っているように接されると、印鑑を用意し要らない契約だってしてしまうだろう。相手は、本気で演技をしているのだから、見抜くことは至難のわざという気がする。

 
私は結構冷静な人間で、人を見抜く力もある方だと自認してきたが、なんだか怪しくなってきた。そこで告知です。今後私と会う用事や機会が出てきた方は、その際はどうか私に気があるようなそぶりをしたり、変に優しくしないで下さい。そのまま寄りかかってしまいそうになる自分と、猜疑心を持って人の本性を射抜こうとする自分との間で、身が引き裂かれそうになるのが今からとても心配なのです。

(2016年5月1日記)

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