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2016年4月16日 (土)

『おいしい資本主義』を読んで

 『おいしい資本主義』(近藤康太郎著、河出書房新社)という本を読んだ。タイトルの“おいしい”と“資本主義”という言葉は、いかにも相性が悪い。しかしそれが、深い意味を湛えているような印象があったので、「何を言っている本だろう?」と惹かれて手に取った次第である。

 本の内容は私には大変参考になった。著者は大手新聞社の壮年社員で、プロのライターである。東京生まれで、勤務もほぼ東京をホームタウンとしてきたにも関わらず、自ら地方の支局への異動を希望(←社内では変人視されたようだ)、晴れて(?)縁もゆかりもなかった長崎県諫早市へ転勤となるのだが、そこで米作りをする体験記である。

 著者の思考が面白い。身を置いている新聞・出版業界が厳しさを増すなか、今後もライター稼業で生きていくにはどうしたらいいか、がその起点である。著者には、父の口癖「白いおまんまに塩かけて食えりゃあ、ごちそうだ」が頭にあり、お米を自分で作れば飢え死にはせずぎりぎり生活を防衛できるのではないか、と思案。一日のうち早朝一時間だけ田んぼに入り、あとの時間は普通に新聞記者として仕事をする“実験”に乗り出すのである。

 これは、それまでの仕事を辞めて農業を本業にするのとは違う。あくまで自分の好きな本業は変えず、最低限の食料を自ら確保するための農業であるという点が、田舎暮らしや農業を勧める他の類書とは大きく異なっている。それで実際、著者が諫早市で借りた田んぼの広さは自分用のお米に必要な約2アール(25メートルプール程度の広さ)にとどまっている。

 虫が嫌いで土いじりの経験すらない著者の、米作りの大変な様子はここでは割愛するが、稲刈りをして最終的に85キロの収穫があったという。60キロあれば男性一人が一年間余裕に食べていけるという目算だったことから大豊作、素人の就農一年目としては大成功に見える。

 ここからは私の頭の中のことだが、私も土地があれば農作物を作りたいと思う。一年分のお米を得ようとまでは思わないが、日常的に口にする野菜類は、庭から採れればいいなあと考えてきた。今は集合住宅に住んでいるので庭はなく、買ってきた野菜を料理するだけだが、“前工程”にまで遡って野菜から作ってみたいのだ。幸い私は、土いじり、庭いじりの類が嫌ではなく、虫(毒を持たないもの)やミミズ、ナメクジに触ることも大丈夫だから、平均的な日本人よりは向いているのではという気がする。

 子どもの頃を振り返れば、家や学校で作って上手くいったのは、じゃがいも、さつまいもなどの芋類、そして水菜、茄子あたりが記憶に残っている。キュウリやトマトの出来はいまいちだったが、人様に買ってもらう売り物を目指さなければ、つまり自家消費を前提にすれば、多分ちゃんと作れるだろう。いつの日か実践して、自分の片足の先っぽくらいは、資本主義の世界から出してみたいと思う。

 さて、冒頭の『おいしい資本主義』の意味であるが、本書では僅かに以下のくだりで述べられているにとどまる。少し深く考える必要があるが、そういうことかと分かったような気がする。

《(「おいしい資本主義」というのは)おいしいとこどりするんだ。おいしいとこどり、なにが悪い? いままでさんざん、国家・企業からおいしいとこどりされてきたのが、都市の労働者だろう。グローバル企業が跋扈し、国家は国民を守らず、企業の手下となって振る舞い始めているのが、現代社会だろう》

(『おいしい資本主義』(2015年発行、近藤康太郎著、河出書房新社))

 著者はグローバリゼーションが進展した、新自由主義の資本主義経済の下、どう生き抜いていくか自分なりに仮説を立て、それを実践に移したのであった。口で言うのはたやすいが、実践となれば別である。そこに著者の偉さがあると思う。私の生き方は少し違うが、今の社会を警戒しているところは一脈通ずるところがある。十年後、二十年後を見据えると、示唆に富んだ体験記であった。

(2016年4月16日記)

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