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2016年4月 4日 (月)

誰も注意しない社会(前編)

 ある日の午後、通院している病院で自分の順番を待っていた時のこと。その日は午後のみの診療だったためか、待合室は非常に混み合っていた。私は紙とボールペンを取り出してブログの原稿に取り掛かったのだが、そのうち一人の女性が子どもに絵本の読み聞かせを始めた。周りの人にもはっきりとストーリーが分かる声量である。

 暫く様子を見ていたのだが、病院の受付の人達も周囲で待っている患者も誰一人として「静かにして下さい」と注意しない。私も注意しなかったから人のことは言えないが、もしこの女性に声をかけたなら、どうなったのだろうか、と頭を巡らせた。

 歩きスマホをしている人を注意すると、口論になって怪我人や逮捕者が出るご時世だから、何が起きてもおかしくはない気がする。もし女性がすんなり読み聞かせをやめてくれなかったならば、あたりに不穏な空気が流れるのだろう。そして、もしも私と女性で言い争いに発展した場合、どちらが悪いことになるのだろうか、と考えた。

 著名人の不祥事やスキャンダルが典型だが、日本では“迷惑をかけた人”“お騒がせした人”が悪い、と裁定されがちである。そうすると、わざわざ「静かにして下さい」と注意して問題を提起し、待合室の空気を乱した私が“迷惑をかけた人”“お騒がせした人”として悪い、となるのだろうか。しかし、そもそもの発端は、静寂のなか声を出して子どもに絵本の読み聞かせをした母親の行為ではないか。

 私が問題にしたいのは、広い意味での子どもではない。泣き叫ぶ赤ちゃんならば、大人が我慢すべきだと思う。まだ赤ちゃんに泣く・泣かないのコントロールはできないからである。しかし、絵本の話を理解できる年齢の子どもであれば思慮分別が働き、親が言って聞かせれば黙っていられると思う。「大勢の人が待っている場所では静かにする」という規範を学ばせるのも、一つの教育なのではないだろうか。

 切り札的に私が主張する用意があるのは、“権利”である。待合室の私には、“静かに過ごす権利”、“騒音を聞かずに済む権利”があるはずで、それを侵害されていると感じるからこそ、声をあげられるのである。もっとも、そうした権利を声高に口にしたところで、「そうだそうだ」と周囲の共感を得られるかは全く自信がない。だからこそ、切り札とも言えるのだが……。

 今日書いたようなことは、公衆道徳の乱れといった観点で、もう何十年も前から指摘されてきたことだろう。歩きスマホは時々事件になるが、病院等の待合室での事件発生は近時耳にした記憶がないことから、“親の読み聞かせは許容する”というのが新たな社会の規範、常識になっているのかもしれない。

 私は面倒なことに首を突っ込みたくない性分だから、先述した通り、待合室ではずっと黙っていた。そして、「これはブログで取り上げよう」と決めた後は、自分の世界に深く入り込んでボールペンを走らせた。こういう見て見ぬふりの態度が、今のご時世良いのか悪いのか、これも私はよく分かっていないのである。


(2016年4月4日記)

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