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2016年3月21日 (月)

『困難な成熟』(内田樹著)を読んで(その3)

 ここ数年のことだが、自分より若い人に対して怒ることが減ってきた。子どもについては特に顕著で、電車やスーパーで子どもが少々うるさくしていても、「子どもとはそういうものだ」と結論付けてやりすごせるようになった。これには、「そういう子どもとも将来関わりを持つかもしれないから」(どこかでお世話になるかもしれないから)という認識が影響している。

 この認識に多少関係がありそうな記述が『困難な成熟』の中にあり、興味を持って読んだ。次のようなことが書かれている。

《教えるというのは共同体を支える「次世代」を創り出すための仕事です。それは家族でも、企業でも、地域共同体でも、国民国家でも同じです。

勘違いしている人が多いので、確認しておきますけれど、教育の受益者は「本人」ではありません。

共同体そのものです。(中略)

ほとんどの人は「教育を受けるのは、自己利益を増すためだ」と信じている。勉強して、いい学校に行って、いい会社に入って、高い年収と社会的威信を手に入れて、ゴージャスな消費生活をするために人間は勉強するのだと思っている。

違いますよ。(中略)

先行世代が教えなければならないのは「自己利益を増大する方法」ではなく「共同体を生き延びさせるための方法」です。教えなければいけないのは、個人が生き延びる術ではなくて、彼らが属している集団が生き延びるための術です》

(『困難な成熟』(2015年発行、内田樹著、夜間飛行))

 
教育の受益者は「本人」ではなく共同体そのもの、という見方はなかなか新鮮だった。私がたまたま居合わせた子どもに対し怒らなくなったのは、“私個人の感情を害した迷惑な対象”から“共同体で今後関わりを持つ可能性のある構成員”へと子どもの捉え方が変わってきたことが大きい。「この子は大きくなったら社会の構成員になるのだから、私の個人的感情でもって安易に接するべきではない」ということである。

 
もっとも、上記の《教育の受益者は「本人」ではありません。共同体そのものです》の直後には、《だから、「おせっかい」な人が出てくるのです》という文章が続いている。さらなる説明がその先で述べられている。

《自分のところの共同体が生き延びてくれないとさきざき「自分自身も困る」ことがわかっているからしかたなく「おせっかい」をしているのです》

(同上)

 「おせっかい」は少し分かりにくいが、『困難な成熟』によると、そもそも、日本で明治時代に立ち上がった多くの学校(私塾)は、市場のニーズなどを受けて設立されたものではなく、海外の宣教師などが誰も具体的に求めてはいない「おせっかい」をスタートとしたものだったという。これこそが教育ということである。

 
以上の思考を経て、いい年をした大人の私にも課題があることが浮き彫りになった。まだ「おせっかい」の作法を身に付けていないのである。うるさい子どもをやりすごすばかりではまずいわけで、共同体の利益を視野に入れながら実際にどう「おせっかい」するか、私なりのやり方を見い出す必要がある。

 
ただその時に、《教育の受益者=「本人」》を当然視している傍の親にどう対処するかも、セットで課題になりそうで頭が痛い。何か子どもに言うと、「あなたはうちの子に関係ないでしょ!」と睨まれそうで、難渋すること必定である。そんなシナリオまで想定すると、結局私は何も言えないかもしれない。

(2016年3月21日記)

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