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2016年3月20日 (日)

『困難な成熟』(内田樹著)を読んで(その2)

 『困難な成熟』には《働くということ》という章があり、考えさせられることが書かれてあった。少々長くなるが、まずは引用から。次のようなくだりである。

《今でも、人間以外の動物は消費しかしません。それを安定的に供給できるような生産様式や流通システムを工夫しようなんて考えません。あれば食べる、なければ飢える。それだけです。(中略)

その中にあって、人間だけが労働をした。

理由はもうおわかりですね。

人間だけが労働するのは、人間の消費する量が自然からの贈与分を超えたからです。

石器時代までは、自生するバナナを採ったり、川で泳ぐ魚をつかまえたり、野山の獣を狩ったりするくらいで食資源としては十分だった。狩猟や採取や漁撈は「労働」というほど体系的なものではありません。ですから、一日のうちのごくわずかな時間しか、そのためには割きません。(中略)

労働は消費に相関します。逆ではありません。消費量が増え、消費する品目が増えれば、それだけ労働時間も労働の種類も増える。それだけの話です。自然からの贈与で間に合っていれば、人間は労働なんかしません》

(『困難な成熟』(2015年発行、内田樹著、夜間飛行))

 なるほどと思った。現代社会においては、人間が多くのものを消費し、かつ頭数が多いことが、私たちが高い経済成長を目指しながらあくせく働き続けなければいけない背景なのだろう。「高度で便利で豊かな社会になったのに、なぜこんなに働かなければいけないのか?」という疑問に対する一応の解が示された気がする。

 私の好きな水木しげるさんは、著書『ゲゲゲの人生 わが道を行く』(2010年発行、NHK出版)の中で、太平洋戦争時に出会ったトライ族という南方の原住民について、《彼らは一日に三時間ほど働くだけで、あとは好きなことだけをやって遊んで暮らしていました》と書き残しておられる。この暮らしぶりは昔の日本にも通底したところがある。江戸時代には職人は一日に平均で四時間ほどしか仕事をしなかったらしく、武士の仕事もお昼頃までだったという。

 一国のリーダーが『一億総活躍社会』と声高に宣ふご時世だが、以上の考え方に基づけば、現在のように沢山のものを消費したりせず、かつ人口も少なければ、私たちが必要とするものと自然からの贈与分との量的な差が小さくなり、必要な労働量も少なくて済むと言えるのではないだろうか。私たちが過剰消費をやめてシンプルライフを実践し、かつ人口が自然減により数千万人程度で推移するようになれば、労働に追われる生活から脱却できる道が拓けるように私には感じられる。

 私たちは、社会を発展させ、また多くのものを消費しないと生活が立ち行かなくなるというイメージを持ってしまっているが、果たして本当にそうだろうか。そういうことを、根本から考える契機となった内田樹さんの《働くということ》であった。

(2016年3月20日記)

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