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2016年2月 1日 (月)

小保方晴子さんの手記に思う(続き)

 マスコミや世間の動きに同調しているようではあるが、小保方晴子さんの手記『あの日』(講談社)について、もう1点書いておきたい。報道によると、同書は理化学研究所や論文の共著者・若山照彦山梨大教授への恨みつらみのような記述も見られるという。こうなると、手記の性格は、私が予想していた“懺悔の書”どころか、痛烈な“反論の書”である。

 現在小保方さんは自由な身であるから何を書いて世に問うてもいいわけだが、メディア報道で流れた《手記の出版 について理化学研究所は「コメントする立場にありません」としている》と、《山梨大の広報担当者は「大学として『コメントしない』という コメントそのものも出さない」と反応》には、意外感があった。あまりの受け流しっぷりである。

 私は理化学研究所や若山教授が「コメントすべき」と思ったわけではない。ただ素直な感情として、「自分が攻撃されているのだから、防御しても一向に構わないのに」と思ったまでである。一般社会の受け止め方は、科学の世界とは恐らく異なる。何もコメントしなければ、小保方さんの言い分(の一部)が世間に広まるのを放置することになる。本に書かれたことが真相なのだ、と受け止める人が出てきてもおかしくはない。

 私は普段から、怒りなどのネガティブな感情は抱えないよう心掛けてきた。変な感情がもたげてくると、早い段階で「これは腹を立てるほど重要なことではないな」、「嫌な気持ちになって貴重な時間を無駄にしたな」などと自分を諭して平常な心に立て直すのである。しかし、もし私が理化学研究所や若山教授の立場だったならば、例外的に違う対応を取ると思う。自分の人間性や社会的評価に傷がつけられかねない異常事態なのだから、毅然とした行動を取りたい。

 両者がコメントしない理由は想像するに、「STAP細胞問題は決着済み」、「科学的な議論以外はやる意味がない」、「科学者でないあの人とはもう関わる理由がない(関わりたくない)」といったことだろう。しかし、世の中には、事実に依らず加工された情報から受けた印象でもって事の善悪の判断をする人が少なくないのだから、言われっぱなしは理化学研究所、若山教授にとってマイナスに作用する恐れもあるだろう。

 私ならば、事実と異なる点や見解の相違点について、堂々と反論したい。記者会見のような大袈裟なやり方でなくとも、反論内容を文章にしてマスコミ各社にファックスする、あるいはホームページにその内容を掲載するくらいのことはしたい。これは、相手の挑発にかかって同じ土俵に乗せられた格好にも映るが、それでももし反論をしなければ、歴史の中に自分の主張の痕跡すら残らなくなってしまう。それは私には許容しがたいと思える。

 
私はどちらかの肩を持っているわけではない。小保方さんは自分の足を踏まれて「痛い」と感じたからこそ、随分時間が経ったのに出版という形で声をあげた。理化学研究所と若山教授も、今回の本で足を踏まれて「痛い」と感じれば、無理して自制などせずに声をあげていいと私は思うのである。

(2016年2月1日記)

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