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2016年2月26日 (金)

長生きの愉しみ

 昨日取り上げた五木寛之さんの『嫌老社会を超えて』には、《何のために生きるのか》という章に次のような一節がある。

《私自身にもその本能(生存欲)はあります。同時に、その本能の背後にどんなものがひそんでいるのかをあえて考えてみて、ふと、こんな結論を得ました。

 笑われるのを承知で言えば、私は「この世界がどう変わっていくのか、見ていたい」のです。日本だけでなく、アジアが、世界全体が、この先どのような変貌を遂げていくのかを目撃したい。知りたい。そのために長生きがしたいのです》

(『嫌老社会を超えて』(2015年発行、五木寛之著、中央公論新社))

 私も、将来はこういう心持ちで生きていくのだろうなあと思った。今はただ、恐怖を伴う死を先送りしたいがために、ぼんやりと「長生きしたい」と願っているだけだが、世の中がどうなっていくのかという知的好奇心は強い。私の場合、五木さんのような世界的な視点ではなく、人間という賢さと愚かさを兼ね備えた生き物がこれからどうなっていくのか、という点の方により興味がある。

 
人間は知能を持った賢い生き物、ということが定説になっているが、本当にそうだろうか。科学技術が進歩してもハエ一匹作り出せないし、依って立つ大切な地球は汚す一方だし、宇宙空間に永住する力はないし、社会を発展させても生きづらさは減らないし……と、人間は賢いとは言えない矛盾したことに力を注ぎ続け、結果迷走しているように私には映る。

 
私がお年寄りの年齢になっても、人間は本質的にあまり変化しておらず、愚かな行為や悲惨な事件が繰り返しメディアを賑わせていることだろう。ユートピアの実現は将来もなさそうだから、私は喜ばしいことばかりでなく悲しいことも、長生きの糧、愉しみとしていると思う。そのうちこのブログに、読み手が「不謹慎だ」と感じる文章が頻出するようになるかもしれない。が、その不謹慎さも変わらぬ人間の性(さが)ではないか、と言い訳まで用意している自分が既にいるのである。

(2016年2月26日記)

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