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2016年1月19日 (火)

静かに逝くという選択

 今月10日、歌手のデヴィッド・ボウイさんが亡くなった(享年69歳)。学生の頃洋楽(ロック・ポップス)が好きだった私は、代表曲『Let’s Dance』、『Modern Girl』、『Blue Jean』をよく聴いたものだった。自分が親しみを感じていたスターがこの世を去るニュースは、本当にせつない。

 デヴィッド・ボウイさんの訃報では、驚かされる報道があった。「騒がれずに静かに逝きたい」という本人の意向に沿って、遺体は亡くなってすぐに秘密裏に火葬され、家族や友人による葬儀は行なわれなかった、とのこと。日本では一般に、社会的に大きな影響力があった人の葬儀は大規模に執り行われることが多い。世界的に知られたデヴィッド・ボウイさんの逝き方は、個人の意思は最大限尊重されるべきとする欧米の価値観ゆえだろう、と私には感じられた。

 私が昨年読んだ本に、『0葬 あっさり死ぬ』(2014年発行、島田裕巳著、集英社)というものがある。“0葬(ゼロ葬)”とは、遺族が通夜・葬式をあげずに故人の遺体を火葬場に送り、焼いたお骨も引き取らないという新しい葬送のスタイルで、葬儀に相当のお金と手間を要する従来のやり方に一石を投じている。デヴィッド・ボウイさんの逝き方は、私にこの“0葬”を思い出させたのである。

 日本でも、私が生きている僅か数十年の間に大きな変化があった。家族・親戚に加えて友人・知人も参列する大掛かりな葬式から、身内だけで故人を弔う家族葬へと、葬儀の形態の主流が移ってきたのである。そういう習俗の流れを踏まえると、将来的に“0葬”のような逝き方を望む人が増えてくる可能性は十分あるように思う。それを後押しするのは、兄弟姉妹、子どもの数が非常に少なくなった今の時代性も挙げられるが、個人がそれぞれに持つ“美学”も大きく影響してくるだろうと私はみている。

 私がここで言う“美学”とは、スマートさみたいなものである。葬儀の場で、亡くなった自分の顔と身体を他人に眺められ、生前のお付き合いを思い出してもらい、悲嘆の涙を流してもらうというのを期待するのは、執着が感じられて格好悪くはないだろうか、という価値観である。死後に自分を誇示したりせず、あっさりと「私は死んだよ、さようなら!」くらいで済ませるスマートさを指向する人が増えていくような気がする。

 実際に私が亡くなったとき、どうなるかは分からないが、「人間は生きている間が全て」と考えている私は“0葬”でもいいと思っている。このブログで誰かに、「柏本湊は、○年○月○日に永眠しました」と最後の投稿を代行してもらえれば有り難いが、それが無理ならそのままでも構わない。ブログが何カ月も更新されなければ、「彼は逝ったんだな」と伝わるはずである。

(2016年1月19日記)

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