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2016年1月20日 (水)

絆というより繋がり

 私は現在集合住宅に住んでいるのだが、最近なぜか、上の階の物音がうるさく感じられることが多い。男の子二人が走り回ったり暴れたりしているようだ。男の子二人と分かるには理由があって、一年程前になろうか、「引っ越してきました。どうぞ宜しくお願いします」と真上に転居してきた若い夫婦が挨拶にやって来た。その時に、「まだ小さい息子二人が騒がしくするかもしれません」と言われていたのだ。

 その夫婦は手ぶらではなく、出身地ならではのお土産を持参していた。納豆である。納豆といってもスーパー等で市販されているものではなく、立派に包装された高級感ある一品だった。私はそれを遠慮せずに有り難く頂戴した手前、少々上が騒がしくしても、「静かにしてください」とは言いに行きづらい状況なのである。

 このように、相手に先手を打たれたのが私の腰が引けている一因なのだが、私のここ1、2年の心境の変化も大きく影響している。それは“繋がり”の認識である。ひょっとすると私は、老後の生活シーンにおいて先の男の子二人と接点を持つかもしれない。成人した二人のどちらかに介護をしてもらったり、病院で治療をうけるかもしれない。予測不能な未来におけるそういう可能性を想像した時、“繋がり”を持つかもしれない人に腹を立てるのは健全ではない、と考えるようになった。

 これは、東日本大震災の後に日本中で言われるようになった“絆”とは意味合いが少し異なる。“絆”の場合は、それを深めるべしと考える人達の強い意志が感じられるが、私の言う“繋がり”はもっと自然体のものである。私たちの社会は大勢の人が持ちつ持たれつで、直接ないし間接に助け合い依存しあいながら生きているのだから、そういう“繋がり”で社会がもっていることを頭の片隅に置いておけば、人間関係全般において寛容になる余地が広がるだろう、と思い至ったのである。

 私の交友関係はそもそもかなり限定的だから、“絆”云々を人から言われたとしたら、自分の人づきあいのあり方を否定されるようで気分が滅入ってしまう。それが“繋がり”という言葉であれば、見知らぬ人たちにも私の生活は支えられているんだ、と抵抗感なく受けとめることができる気がするのである。

 もっとも現実は、こういった観念的な世界とは切り離されて進んでいく。今後も、子ども達が騒々しいと感じる日々はやってくるだろう。“繋がり”を意識した私が先の夫婦に文句を言うことはないと思うが、上手い対処法はほしい。耳栓をつけて本を読む、少しの間外出するといったことは考えたのだが、あいにくまだ妙案は見つかっていない。

(2016年1月20日記)

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