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2015年6月 8日 (月)

コップの中の嵐

 あれはいつのことだったか。過ぎてしまうとどんどん記憶は薄れていくものだ。例えば、大阪都構想の住民投票である。あの日、テレビのニュースは投票予想、そして開票速報ばかりであったが、私はそれについて何も考えずに過ごしていた。何も思うところがなかったからである。

 私は大阪で生まれ育ったので、大阪の在り方には思うところがあってもおかしくない人間である。が、大阪都構想について、メリット、デメリットを比較するどころか考えようとしたこともなく、橋下さんへの好悪等の感情も特段持ち合わせていなかった。乱暴な言い方をすれば、どうでもいいことだったのである。

 振り返ると、私は就職してからというもの、ことあるごとに厳しく温かい上司や先輩から次のように言われてきたように思う。

「当事者意識を持て」

 自分だけの視点で仕事に取り組むのでは不十分、それでは大きな視野を養えないし、社内外で広く良好な人間関係を構築できず、リーダーシップも発揮できない、というのが、「当事者意識を持て」の裏にあった考え方だと思う。それは先々、会社という大きな組織を動かすポジションを展望する者に求められる態度に違いなかった。

 が、それから相当の年月が経ち、勤め先を退職した私は、逆のベクトルの行動指針を持つようになった。つまり、「なるべく当事者意識を抑えて生活しよう」である。これは、腹を立てたり、憤るといったことが少なくなる点で、非常にプラスが大きい。感情の抑揚をセーブしやすくなるのである。このお蔭で私は、大阪都構想の否決、橋下大阪市長の政界引退の報を聞いても、淡々と受け止めることができた。

 当事者意識を持ちすぎると、自分の行動が先鋭化する恐れすらあるのではないかと思う。例えば、英国で誕生した王女の名前にあやかって日本の動物園が猿の赤ちゃんにその名前を付けたところ、抗議の電話が多数寄せられたというニュースがあった。私に言わせればこれは異常なことで、動物園関係者でもなく、イギリス人でもない人が、わざわざ電話をかけるというのは、当事者意識が過剰だと私には映るのである。「あなた、関係ないでしょう?」と思ってしまう。

 
解剖学者の養老孟司さんが著書『ぼちぼち結論』(2007年発行、中央公論新社)の中で明かしておられることだが、昔養老さんが身を置いていた大学で、誰を教授にするか人事で大騒ぎになった時、養老さんはそれを“コップの中の嵐”と呼んでいたという。嵐なのだが、外から見れば所詮コップの中での出来事に過ぎない、ということである。養老さんは自分の目をコップの外側に置いたわけで、これは、当事者意識の見事なまでのコントロール術だと私には思える。

 
世の中を震撼させるような大きな事件も、自分に比較的近い所で起こった小競り合いも、“コップの中の嵐”と見れば、冷静に眺めることができるだろう。今や“コップの中の嵐”は、私が頻繁に愛用している概念となっている。

(2015年6月8日記)

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