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2015年3月10日 (火)

相手の立場に立つということ

 昨日の『渡辺明の思考 盤上盤外問答』(渡辺明著、河出書房新社)で、もう一つ考えさせられたことがある。子どもの頃の渡辺二冠にはKY(空気を読まない)の気味があったそうで、次のように述懐されている。

《僕は小学校の高学年のときに相手の気持ちを読まない発言が多かったようで、(先生に)「自分がされたらどう思うか。相手の立場になって考えなさい」と繰り返し言われました。毎日のように。(中略)僕もそれで、こういうことを言ったら相手がどう感じるかを考えるクセがつきました。今にして思うと、ありがたいことだったんですね》

 私もこの通りだと思う。一度相手の立場に立って物事を考える、感じるようにするのは、人間関係を円滑に進めていく上で大切なことだと思う。そうしなければ、大人になっても我のぶつかり合いが頻繁に発生することになってしまう。もっとも私は、渡辺二冠のご指摘には、さらに続きというか、応用編があってもいいと考えてきた。渡辺二冠の言に対してややアンチテーゼの感があるが、哲学者の中島義道さんがこんなことを仰っている。

《「自分がされたくないと思うことをひとにするな」と子供たちに説教する鈍感な大人がいる。これも、感受性の差異という現実を見ようとしない暴言である。自分が「されたくない」ことでも他人は「されたくなくはない」かもしれないではないか。自分が「してもらいたい」ことでも、他人は「してもらいたくない」かもしれないではないか》

(『どうせ死んでしまうのに、なぜ今死んではいけないのか?』(2008年発行、中島義道著、角川書店))

《私は世の評論家や教師は、若い人々に「他人の痛みや気持ちをわかる難しさ」を教えるべきだと思っております。そこから、自然に他人に干渉しない、他人を異質なものとして尊重するという態度が養われるからです》

(『哲学の教科書 思索のダンディズムを磨く』(1995年発行、中島義道著、講談社))

 私は中島義道さんの考え方にも、非常に共感を覚える。人から何かを言われたとして、それを自分と周囲の人が同じように受け止めているとは限らない。また、仮に同じ感情を抱いたとしても、その深度は違うかもしれない。そうした可能性をはなから排除し、“みんな一緒”的な受け止め方を当然視するのは、乱暴な感じがするのである。

 この考え方から導かれる教訓は、「他人のことを分かったつもりになるな」である。複雑な思考と感情を持つようになった人間は、一人一人が別個であって、全く同じ人は存在しない。この現実は、私たちが共同生活をしていく上で、実は大前提と言えるものだと思う。翻って自分自身についてよくよく考えてみると、このあたりの認識を変に強く持っていることが、私が人間関係について臆病で、距離を長めにとる傾向がある一つの原因になっているかもしれない。

(2015年3月10日記)

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