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2015年3月17日 (火)

倶会一処

 14日に『大切な方を失って』という話を書いたが、その大切な方と現世にてお別れをする際、立ち会って頂いた僧侶の方が、「仏教には“倶会一処”(くえいっしょ)という言葉があります。またいつか会うことができる、という意味です」と仰った。この言葉に私の記憶はすぐ反応した。仏教に関するものなど、様々な本で見知った言葉だったが、実際に人の口から「くえいっしょ」を聞いたのは初めてであった。家に帰って早速自分の読書記録を調べると、やはり幾つかヒットした。

《『阿弥陀経』に「倶会一処」という言葉があります。これは「ともに再び極楽浄土で会いましょう」ということです》

(『般若心経に学ぶ人生』(1995年発行、ひろさちや・阿純孝著、すずき出版))

《浄土宗の聖典『阿弥陀経』に「倶会一処」とあります。この世で死ぬのは別々でも、再び親しい人と極楽浄土で会することを言います》

(『葬式をしない寺 大阪・應典院の挑戦』(2011年発行、秋田光彦著、新潮社))

《夕食後、本願寺の会館でご法話の聴聞。お話される先生は86歳のお坊さん。最後に「またいつかお会いしましょう、とは申しません。この歳ですから、これが生きてるあいだ皆さんにお会いできる最後のご縁になりましょう。次は、お浄土でお会いしましょう」とご挨拶された。これを真宗では「倶会一処」(くえいっしょ)と言う》

(『おぼうさん、はじめました 仏教サイコウ!東大新卒IT僧侶の修業日記』(2005年発行、松本圭介著、ダイヤモンド社))

 無宗教で、仏教との関わりはお葬式ばかりという日本人が大半らしいが、そういう人に言わせると、あの世で再び会えるとする「倶会一処」は根拠がなく、非科学的ということかもしれない。しかし私は、愛情に溢れていて素晴らしい考え方だと思う。土台私たち人間は、なぜこの世に存在するか分からない生き物である。そこからして分からないことだらけなのだから、死後の世界についても知りようもない。だから、どう解釈したっていいではないか、ということである。少し脱線するが、あの世の世界を語るのに根拠を求め、科学的であろうとする人たちの多くが、競争社会に身を投じ人生で夢を実現しようと躍起になる姿は私には少し滑稽に映る。なぜなら、真理として人はいつか死んでしまうからである。

 
これから先のことを考えると、私は多くの方々を見送らなければならないのだろう。私はそういう年齢に差し掛かっている。しかし、それをただ嘆き悲しんでいるのはどうかとも思っている。自分の寿命が尽きた後で、別れた方々とまた再会できると考えるのは、とても想像力豊かな人間ならではのなせるわざであり、いずれ自分があの世に旅立つことすら受容しやすくなるとも思うのである。

(2015年3月17日記)

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