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2014年10月22日 (水)

幸せの閾値

 先日テレビで、有名な女性弁護士と夫(俳優)の私生活の様子をたまたま観て、“夫婦が気まずくなる瞬間”を疑似体験した。事の起こりはこうである。記念日のプレゼントとして、夫が妻に宝石を買って渡した(その様子を夫が録画したものがテレビで流された)。サプライズだったらしく、妻は喜んだのだが、肝心の宝石を見て黙ってしまった。好みとは違ったからである。その女性は感情を押し殺さない。最後にはその宝石は、「使わないけど置いておく」と言われてしまった。

 
私が観た映像に“やらせが入っていない”という前提で、感じたことを記してみたい。男性目線に偏っているかもしれないが、私は夫が気の毒に思った。妻の好みにつき不勉強があったかもしれないが、記念日を忘れずに、お店に足を運んで宝石を買うという“プロセス”とそこにある夫の優しい気持ちに貴さがあるにも関わらず、好みに合わない宝石という“結果”だけで夫は評価されてしまったからである。こういう女性に常に喜んでもらおうとすれば、男性は本当に大変だろうなと思う。

 “幸せの閾値”という概念についても私は考えさせられた。これは、幸せを感じることができる水準(ポイント)とでも言えばいいだろうか。私に言わせれば、この女性は“幸せの閾値”が高すぎるのである。自分の好みに合った宝石でなければ満足できないというのは、閾値が高すぎる好例である。夫が記念日を忘れずに、プレゼントを何か用意してくれたところに閾値があれば、それで女性は幸せが感じられるのに、である。“幸せの閾値”が高すぎることが、不幸せを招きかねないというのは、笑えないパラドックスに思えてしまう。

 
“幸せの閾値”は、私が考え付いたものではない。大元の原典は知らないが、小山薫堂さんの著書『もったいない主義』(2009年発行、幻冬舎)、『社会を動かす企画術』(2010年発行、中央公論新社)や、堀江貴文さんの著書『刑務所なう。ホリエモンの獄中日記195日』(2012年発行、文藝春秋)、『刑務所わず。塀の中では言えないホントの話』(2014年発行、文藝春秋)にも登場している言葉である。

 最後に我が身を振り返ってみる。世の中が平和で、心身共に健康で、美味しく食事ができて、寝るところがあって、将棋の対局を観れて、ブログも書けて……という日々を思えば、私は十分に幸せを感じられる。自分では、“幸せの閾値”は結構低いところにあると思っているわけである。一方で、妻の“幸せの閾値”がどのあたりにあるのか、(私と大きな違いがなければいいのだが)これは恐くてずっと聞けないでいる。

(10月22日記)

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