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2014年10月 2日 (木)

“飴ちゃん配り”に思うこと

 ある日のこと。事情があって場所は明らかにできないのだが、男性、女性が計十名ほどいる室内で、一人の男性が「どうぞ」と銀紙で包まれたチョコレートを配り始めた。私は「有り難うございます」とお礼を言って受け取ったのだが、「男性でも“飴ちゃん配り”をやる方がいるんだ」と思った。

 “飴ちゃん配り”とは私の勝手な言い回しである。職場などで、しばしば女性がお菓子を配って回ることを指したものだ。勿論、配るお菓子は飴に限らない。チョコレートもあればクッキーもあり、お煎餅ということもある。午後にちょっと小腹を満たすおやつを配ってくれるのは、圧倒的に女性が多い(というのが私の受けてきた印象である)。

 出典は失念したが、この日の“飴ちゃん配り”で、ある人生案内の本に書かれていた女性の相談事を思い出した。その女性の職場の同僚数名が、持ち回りで毎日のように高価なお菓子、人気のお菓子を自腹で用意し、休憩時間に「美味しい」「美味しくない」と品評しながら食べるらしいのだが、「お金がかかることもあり苦痛になってきた、その輪からはずれたいがどうしたらよいか」という相談内容だった。

 また、これは私の知る女性から聞いたことである。やはり、職場の人達が“飴ちゃん配り”をしているという。「今は同じ職場になって1か月ほど経った時期だが、自分は貰うだけでまだ何も配っていない。誰からも何も言われていないが、そろそろ自分も何か持っていかないといけないかな、と思い始めている」という話だった。貰いっぱなしが気になり始めたというこの感覚は、私でもよく分かる。

 
さて、ここからが私、偏屈おじさんの見解である。もし“飴ちゃん配り”をしている女性が、「あの人は食べるばかりで、持って来ないわね」と、仲間内でヒソヒソと話し合うとすれば、私は強い違和感を覚えてしまう。なぜなら、この女性は自分から自発的に善意で飴を配っているのであり、相手からのお返しが前提にはなっていないからである。勝手に配っておいて、相手にお返しを期待するのはそれこそ身勝手であり、加えて、お返しがないことを陰でことさらに取り上げ、その人を異端視するかのような空気を醸成するのは卑怯な感じがするのである。

 昔の私は、こんなことは考えていなかった。頂いたものに対してはお返しをするのが自然、と思っていて、勤務先で“飴ちゃん配り”が行われても特に気にもとめなかった。しかし、世の中に“飴ちゃん配り”を当たり前の行為とみない人がいることに気づき、その背景に色々な考え方がありそうだと思うようになったのである。では、配らない人にどんな考え方がありうるか、思いつくところを列挙すると、次のようになる。

 
◇自分に間食する習慣がない

◇甘いもの、辛いものは控えるようにしている

◇菓子類は健康にあまり良くないので購入しない

 ◇お金を出してまで菓子類は買わない

 ◇人から貰うのは、まるで恵んでもらうようで卑屈で嫌である

 ◇お返しで、相手の口に合うお菓子が何か分からない(選ぶのが面倒である)

 想像だが、“飴ちゃん配り”をする人は、このような考え方を持つ人がいるかもしれないということまで考えていないような気がする。当然に「相手は美味しく食べてくれるはず」と思い、「いずれこの人も何か配るはず」とおぼろげながらも期待するのだろう。しかし現実は、“飴ちゃん配り”を不要と考える私のような偏屈おじさんを含め、多種多様な人間がいるのである。

 
“飴ちゃん配り”をしている女性がお返しを当たり前と考えたならば、という仮定の下で、ここまで書き進んできた。私が嫌悪するのは、「あの人は食べるばかりで、何も持って来ないわね」と仲間に同意を求めるならば、その発言こそが“同調圧力”であり、最悪の場合は仲間外れやいじめの温床にもなりかねない、ということである。“飴ちゃん配り”自体が悪いというわけでは決してない。集団内の人間関係を円滑にする効果等があるケースも多いだろう。ただ、配る側ももらう側も成熟し自立した個人であれば、相手に見返りを求めない一貫した姿勢が配る側にあってほしいと思う。これが、今日私が言いたかったことである。

(10月2日記)

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