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2014年9月24日 (水)

The right to be let alone

 勤め先を退職し、独立してからのこと。ある日、朝九時頃に携帯電話が鳴った。起きていれば電話を取るのだが、その時は前の日に終日出歩いていて身体が疲れていたので寝ており、鳴っているのには気付いたがとても電話に出る気にはならなかった。

 数時間後、目が覚めてから携帯を見ると、知っている方からの電話だったと分かった。と同時に、不快な気持ちが頭をもたげてきた。朝九時は決して早い時間ではないが、私がどういう生活をしているか知る由もないのに(まだ寝ているかもしれないのに)、電話をかけてきたというのは、私の都合は一顧だにされていないということだと思えたのである。朝九時なら「確実につかまえられる」と考えたのだろうか、朝のちょっとしたスキマ時間を有効活用して電話をかけようと思ったのだろうか。いずれにしても、私の事情は考慮されなかったのだと理解せざるをえなかった。

 その電話は急ぎの用事だったかといえば、そういうものではなかった。私は待ったのだが、その後ずっと電話はかかってこなかった上、メールも来なかったからである。私が折り返しの電話をすべきだったのかもしれないが、あいにくそういう気持ちにはならなかった。朝の眠りを邪魔された上、自分のことが全く考慮されなかったという思いが、私の気持ちが素直になるのを妨げたのである。

 もう少し書き加えると、私の場合、予期せぬ時間に携帯電話が鳴ると、親のいる実家で何か起きたのではないかとぎょっとしてしまう。だから、緊急でない要件の場合は、メールを頂くのが一番有り難い。自分の都合のよい時間に読んで、返信できるからである。携帯電話という連絡手段は、その時何をしているか分からない相手の行為を強制的に中断させるものであるから、そのための必然性を求めたいと思う。

 こんな私のことを、少し変にこだわりすぎ、エキセントリックと感じる向きがあるかもしれない。確かに世の中では、携帯電話はこのように“限定的”には利用されていないようにも見受けられる。ここからもう少し説明を要するのだが、これは、私が“The right to be let alone”というものを大切にしている人間だからだろうと自己分析している。聞きなれない英語かもしれないが、“一人にしておいてもらう権利”くらいが適訳だろう。昔読んだ本によると、これは西欧で確立されたプライバシー権の元となった権利であるらしい。あの朝で言えば、私には、電話に出ずに一人にしておいてもらう権利があったはずだと思うのである。

 SNSの広がりで、若い世代を中心に「繋がること」や「絆を深めること」を重視する空気が昔よりも広がっている気がする。大勢の友人・知人と繋がっていないと淋しい上に、周囲から見て格好悪い、というわけであろう。それはそれで一つの価値観であり、私がとやかく言う筋合いのものではないが、私は別の方向を向いた価値観で生きている。気が進まないのに無理をして繋がろうとは思わないばかりか、“一人にしておいてもらう権利”は侵害されたくないのである。そうした考えに基づく私の態度が、人の気分を害することがあるとすれば、価値観の相違から来るものなので、その人との相性が良くなかった、と諦めるしかない。私はそう考えている。

(9月24日記)

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