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2014年8月11日 (月)

困っている人を助けた体験から

 7月28日深夜のこと。翌日は“燃えるゴミ”の回収日だったので、右手にゴミ袋を持って、住んでいる集合住宅のゴミ置き場に向かって歩いていると、前方に松葉づえをついて大変そうにゴミ袋を運んでいる初老の男性が目に入った。私は左手が空いていたので、「一緒に持っていきますよ」と声をかけると、男性は「すみません」と言って袋を私に預けてくれた。ゴミ置き場に行く手間は同じで、造作もないことであった。

 続けてこんなこともあった。8月1日昼前のこと。図書館から帰る途中、好きなパン屋さんに寄って、パンをトレ―に取りレジ前に並んでいた。すると、腰の曲がったおばあさんが、高い場所にあるパンをトングで掴もうと四苦八苦していた。私は右手でトレーを持っていたが、左手は空いていたので、「取りますよ」と言っておばあさんのトングでそのパンを取ってあげたのである。

 
「今日は人助け自慢か?」と解釈する人がもしいたとすれば、ここから先は読んで頂く必要がない文章である。私は、なぜ自分が自発的に助ける行動に出たのかを考えてみた。まず、“取引”の意識はなかった。この“取引”は“見返り”と言ってもいい。私は初老の男性、おばあさんからの見返りなど、はなから期待していなかった。ただ、「困っている人が目の前にいたから、力になりたい」と思ったにすぎない。もっとも、実際は、人助けをして心がすっきりした気持ちになれたため、結果的に私自身のプラスにもなった行動でもある。

 
さて、両方のケースにおいて、私に“余力”があったことは見逃せない。私は左手が空いていたのだ。だからためらいもなく、手を差し伸べることができたのだと思う。両手が塞がっていたならば、どう行動したであろうか。電車で人に席を譲ろうと思った時に、自分が疲労困憊して坐っていれば、譲ることは難しいだろう。このことからも、自分のその時の状況が行動に影響するであろうことが想像できる。

 今の私が意識して取り組めることは、こうした“余力”を持ち続けられるような生活を送ることだと思う。“余力”があれば、ためらいもてらいもなく、困っている人の力になれそうな気がする。私の真の人間性が問われるのは、その“余力”が無い時であろう。加齢とともに、“余力”も減っていく方向にあるから、いずれは頻繁に“余力”のない自分と対峙することを覚悟しなければならないと思う。

 
あの初老の男性とおばあさんは、未来の私の姿でもある。そこまでははっきりと見通すことができる。その時、“余力”ある人たちが社会に、自分の周囲にいるのだろうか。それはまったく分からない。私は人と“取引”などしていないのだから、自分が困った側に立った時にどうなるかは分からない。二つの似た体験からあれこれ考えはしたが、将来のことは分からないため、これ以上は考えないようにしよう。世界の宗教家がよく言ったように、私たちは「今を生きる」「今日を生きる」しかないであろうから。

(8月11日記)

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