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2014年6月23日 (月)

元気や感動はもらうもの?

 今や陳腐化した疑問なのかもしれないが、私にはずっと不思議に思ってきたことがある。サッカーのワールドカップ・ブラジル大会で、日本は一次リーグで2戦して1敗1分と正念場を迎えている。まだ勝ち星をあげていないため聞こえてこないが、サッカーやオリンピックなど世界レベルで競うスポーツにおいて、観戦している人が応援チームの勝利を喜び、「元気をもらった」「感動をもらった」と口にするのが、いつの頃からか当たり前になった気がする。これがどうもしっくりこない。

 
長い間、この「元気をもらった」「感動をもらった」という表現に違和感を覚えてきたわけだが、この感性は私だけのものではなかったようだ。例えば、英文学者・文学博士の外山滋比古さん、実業家の福田淳さんは次のように記されている。

《「このごろよく、“元気をもらう”ということばを耳にします。なんとなく浅ましいような感じを受けますが、オリンピックでは、元気をもらった人がずいぶん多かったようですね」

――スポーツのファンの多くが元気をもらう人種です。もらいすぎ、元気にまかせてあばれるサポーターもいます。じっとしていられなくなるのでしょう。一種の雷同です。感染的で、かわいいところもあります》

(『忘却の力 創造の再発見』(2008年発行、外山滋比古著、みすず書房))

《最近、「感動をくれてありがとう」とか、「泣きたいあなたへ」なんていう本の宣伝文句を見かけますが、いつのまに、感動という言葉もビジネスライクな時代になったのでしょうか。本来そうした感情って何か媒体からもらうものではないでしょう》

(『これでいいのだ14歳。天才バカボン公認副読本』(2008年発行、福田淳著、講談社))

 
この福田淳さんの指摘は、私の感覚にぴったりくるものである。元気や感動は、自分の内側から湧き出てくるものであって、スポーツの結果などはそのきっかけにすぎない。主体性を持った人間として、自分の感情を“外からもらった”などと周囲まかせに捉えたくはないのである。だから、「泣ける映画」「感動できる本」と人から言われたところで、到底首肯できない。泣くかどうか、感動するかどうかは、私が実際に観て読んで、心が動くか否かで決まることだからである。表にあらわすかどうかは別にして、私は、感情は自分のものとしてとっておきたい。

 
ワールドカップの第3戦(対コロンビア戦)でも、私は日本人として日本チームを応援するが、見事勝利をおさめた場合も、「元気をもらった」「感動をもらった」とは言わないつもりでいる。

(6月23日記)

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