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2014年6月30日 (月)

生きる上での軛(くびき)を考える

 既に数十年に亘って、私たちは個人として自由を謳歌できる時代に生きているはずである。が、現実に直面しているのは、非常に生きづらい世の中である。日本では、毎年二、三万人もの人が自死していること、さらに数十万、あるいは百万人単位で精神疾患やメンタルヘルスの不調で苦しんでいる人がいることが、生きづらい現状を如実に物語っていると思う。

 
こうしたことを思案しているだけで、気分は塞ぎがちになるものだが、ある出版物に次のようなことがただ一文書いてあって、フッと心が軽くなったことがある。

《人間は、「契約」と「法律」によってのみ他人から強制を受けるものである》

 言われてみれば、確かにそうである。「契約」は権利と義務を規定するもので、「法律」は国民(の代表)が定めたルールである。私たちが“何かをしなければならない”というものは、この二つが根拠になっている。前者では例えば、自分が当事者となる雇用契約、不動産賃貸借契約、火災保険契約、生命保険契約などがあるが、これらの「契約」や「法律」以外には、他人から強制されるものはなさそうである。私たちを取り巻く世間体、社会規範、常識、道徳、社会の空気、親や家族の考え方などは、私たちを強制するものでは決してない。強制力を持たないのであるから、生きる上での軛とは必ずしも言えない。私たちの心がこれらに囚われているだけなのだ、とも解せよう。現代に生きる人間は、本来もっと自由な存在である。

 私が個人の自由を考える時、頭に浮かぶことがある。それは、中村うさぎさんの生き方である。『ショッピングの女王』で有名になった方だが、著書で明らかにされた自由奔放な生き様には驚かされた。なんと、自らが仕掛けた性的な体験が赤裸々に綴られていたのである。

《デリヘルをやってみようと思い立ったきっかけは、じつに単純な「私だって、女として認められた~い!」といった願望に過ぎなかった》

《私はまず体験する。体験した後で、自分の肉体や心の声に耳を傾けつつ、その問題を考える。それが、私のやり方だ。デリヘルをやった私に世間は驚いたようだが、私にしてみれば、いつもの「実体験主義」に他ならない》

《今回のデリヘル嬢体験で、もっとも興味深かったのは、デリヘル嬢の仕事そのものではなく、デリヘル嬢をやった私に対する世間の反応であった。露骨に嫌悪を表明し、風俗嬢に対する差別意識を臆面もなく曝け出したのは、女たちではなく男たちだったのである》

(『私という病』(2006年発行、中村うさぎ著、新潮社))

 
中村うさぎさんが自ら乗り込んだ性的な体験に対しては、男性から強い拒絶反応が見られたという。次に挙げる漫画家の故・青木雄二さんは、女子高生を例に、身体を売ることを“心を売る”(魂を売る)行為として指弾しているが、私もその気持ちはよく理解できる。

《例えば、女子高生とか女子中学生が、あくどい大人にのせられて売春をしてお金を儲けている。でも、これかて、結局はだまされているわけやで。(中略)僕ははっきり忠告したい。今すぐそういう行為は止めなさい。「自分の体で何しようと勝手じゃん」やて?(中略)自分の体を売ってると勘違いしとるけど、実は心を売っとるんやで。(中略)それも安い金でな》

(『僕が最後に言い残したかったこと』(2003年発行、青木雄二著、小学館))

 が、中村うさぎさんは“心を売る”(魂を売る)ことに関して、次のように言い放つのである。

《私の「ブランド狂い」「ホスト狂い」「美容整形狂い」は、前から言ってるように、いわゆる「本当の自分探し」という名の「自己実現欲求」および「承認欲求」のなれの果てよ。本当の自分がどこかに隠れてて、その自分が自他に承認されてこそ、「これが私の人生!」と胸を張れる充実した人生が完成する……という幻想が、私の中にはずっとあった。私はその幻想を追い求め、「社会的に承認された自分」のシンボルとしてブランド物を欲しがったり、「女としての承認」をホストや美容整形やデリヘルで実現しようとしたりしたワケね》

《世間では「魂を売る」行為をクソみたいに言うけどさ、私の場合、売り物が「魂」だからこそ、金をいただく価値があるんだと思ってるわよ。自分の魂なんか曝け出しもせずに、適当に耳障りのいい言葉だけを書き連ねてお金を稼ぐなんて、私にはできない。魂のない言葉になんか、何の価値もないと思っているから。ええ、だから、私は魂を切り売りしてるし、それを恥じる気なんか全然ないね。まあ、もともと羞恥心のない女だから、どんな事をしても恥じる気なんか起こらないんだろうけどさ》

(『うさぎとマツコの往復書簡』(2010年発行、中村うさぎ、マツコ・デラックス著、毎日新聞社))

 
中村うさぎさんが魂を売っても構わないと考え、実際に“行為”に及んだのは、社会の軛から完全に逃れ自由であることの象徴のように私は感じたである。その善悪や好き嫌いはさておき、中村さんは、個人の自由な生き方というものを、飾らずに見事に広げて見せてくれたような気がする。

 
ここで前段の話に立ち返る。今の日本はしんどい社会に感じられるが、生きる上で実は軛はそう多くない、「契約」と「法律」以外には強制されず束縛されない、と考えることもできると私は思う(中村さんの行動は極端かもしれないが)。私がこう考える余地を残す主眼は、もっぱら囚われた心を軽くすることにある。

(6月30日記)

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