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2014年2月14日 (金)

“秒単位”は本当に必要か

 昨日に続き、受験の話からスタートしたい。自らの不明を恥じなければいけないのかもしれないが、最近の入学試験では、受験生は“秒単位”で試験時間をチェックしており、とてもシビアになっていると知った。そして試験監督者は、事前に電波時計で一秒の狂いもないよう準備する必要があり、受験生以上にピリピリしている人もいるらしい。

 
もう二、三十年前のことだが、私は学生時代、秒針まで気にして試験を受けた記憶がない。残り1分ともなれば、解答用紙の氏名や受験番号を確認する位しかないと観念していたせいかもしれない。が、そこまでギリギリとした雰囲気が、その時代の試験会場にはなかったような気がする。もし試験運営に不服・不満があったとしても、学生の立場で異議を唱えることなどなかなか考えられなかった。

 
関連して思い出したことだが、余裕のなさという点に共通して、今は学習塾で習ったことを他人に教えない風潮もあるようだ。『手塚治虫のブッダ 救われる言葉』(手塚治虫著)には、こんな文章が記されている。世知辛い世の中になったものである。

《小学校6年生のある教室で算数の時間で本当にあった話。「A君、この問題の解き方をB君に教えてあげなさい」と先生がいったところ、児童A君がこう答えた。「冗談じゃないよ。ボク、お母さんにいつも、おまえの塾にはお金がかかっているのよといわれてるんだ。お金かけて習ったことを他の子なんかに教えてあげられない」》

(『手塚治虫のブッダ 救われる言葉』(2007年発行、手塚治虫著、光文社))

 
“秒単位”の時間へと話を戻そう。秒にこだわったために、悲惨な事件も過去に起きている。例を挙げれば、僅か数秒登校時間に遅れただけで女子高生が校門に挟まれて亡くなった校門圧死事件(1990年、神戸市)、過密なダイヤ(秒単位の定時運行)が脱線の一因とされたJR鉄道脱線事故(2005年、兵庫県)が、有名なところであろう。

 
鉄道運行の正確さは、日本を訪れた外国人が驚くことの一つである。それは、私自身も感動したことがある(特に新幹線の到着時刻)。が、それを有り難いと評価できるのは、サービスの受益者の立場からである。サービス提供者にはもの凄く大きなプレッシャーがかかっているに違いない。日本の鉄道を賞賛する外国人は多いようだが、「私もあのように正確にサービスを提供したい」と、サービス提供者の側に回ることを想定してマスメディアで発言した方には、今までお目にかかったことがない。それはそうであろう。提供する方は大変だ。“秒単位”によって、みんながハッピーになるわけではないのである。

 
時間で思い出すことがある。結婚する前、今の妻と東京ディズニーランドでデートをした時のことだ。最寄りの舞浜駅で待ち合わせをしていたのだが、車で向かっていた私はひどい渋滞に巻き込まれてしまった。1990年代で携帯電話がなかった時代のこと。彼女に連絡を取ることができず、到着したのは待ち合わせ時間の二時間も後だった。が、それでも彼女は待っていてくれた。しかも怒ったりせずに、そのあと普通に楽しいデートができたのである。彼女が時間にうるさい人だったら、ハッピーなデートにはならなかったに違いない。時間にうるさいことは考えものだとつくづく思う(秒単位レベルならなおさらである)。

 
この話での唯一の誤算は、二人で買い物に出るのが遅れるなど、日常生活において私がちょっと時間のことでいらいらしたりすると、妻に「私はあのとき二時間も待ったよ~」(だからその位でカリカリしないでね)と言われることである。あれからもう二十年程経つが、妻はこの一件をずっと覚えている。私は、強力な武器を持たせてしまったと後悔している。

(2月14日記)

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