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2014年2月22日 (土)

働くことを考える

 以前からずっと頭にあったテーマだが、今日は働くことについて考えてみたい。といっても、「働くことこそ生きがい」、「働くことは日本人にとって喜び」といった、何十年も前から企業経営者が熱く語ってきたことをなぞるつもりはない。「仕事の報酬は仕事」といった自己陶酔型の労働賛美をするつもりもない。また、「傍(はた)を楽にするから“働く”である」という形で纏めるオチも用意していない。

 
結論めいたことを先に書くと、働くことをどう捉えるかは、まったく個々人の自由でいいと思っている。意味があると思ってもよく、そしてその意味が生き甲斐であったり、自己実現や社会貢献であると考えてもよい。その一方で、働くことに意味なんかないという見方をしても構わない。

 
なぜこのように、働くことを固定的に理解しようとしないかと言えば、働くことが人間の生き方をがんじがらめにする弊害が大きいと思っているからである。人々が働くことにこだわりすぎた結果、メンタルヘルスの不調を訴えたり、家庭不和に陥ったり、仕事と家庭の両方で躓いて自死に至るケースもかなり見受けられるのが今の日本社会だと思う。働くことだけが幸せへの道ではないだろう。働くことに特別な意味を求める生真面目な労働観が、私たちを不必要に縛っていると考えるようになった。

 
実は、数年前まで私のイチオシの考え方は、読売新聞編集委員・芥川喜好さんの次の文章に代表される、“社会の穴埋め理論”であった。

《仕事とは、社会に空いた穴である。放っておけば、皆が転んで困る。だから埋める。ともかく目の前の穴を埋める。それが仕事というものだと。自分が穴を埋めた分、世の中は平らになる。歩きやすくなる。そこが肝心です。つまりどんな仕事も社会的役割を負っている。仕事とは、人間が生きるための役割分担だということです》

 
これは、仕事が内包している社会性を分かりやすく伝えており、スッと腹に落ちる内容であった。それでも徐々に、「成熟し豊かになった今の日本は、それほど穴は多くはないな」と思うようになるにつれ、「これ以外の捉え方もあるのではないか」と考えるようになった。その裏には、自分が積み重ねてきた読書体験を通して見えてきたことが大きい。つまり、歴史的に見て仕事=貴いものとは限らないことや、仕事をしない(できない)人を価値なしとする見方がおかしいことが浮かび上がってきたのである。例えば、少し長くなるが以下のようなことが書かれている。
 

《働くこと自体の中には何も高貴なものはない。初期の諸々の社会を見ると、戦争のさかんな時には働くことが軽蔑され、軍人になることが尊ばれたことが分かる。現在では大多数の人が労働者であるから、働くことが尊ばれる。事実は、単に、自惚から、人間は自分達の行なっている特殊な活動を、人間の最も高貴な目的だと考えるだけのことである。(中略)働くことは多数の者にとって、倦怠からの唯一の逃げ場なのだ。だがそうした理由でこれを高貴というのは滑稽である。何もしないでいるには、いろいろな才能や多くの教養、もしくは特別な構造の精神が必要である》

(『対訳モーム4 サミングアップ 作家の手帳』(1959年発行、サマセット・モーム著、南雲堂))

《人類の長い歴史の中で、「働く」ということが、あたかも普遍的な価値であるかのように重視されるようになったのは、農耕を始めてからで、たかだか一万年程前からです。さらに「自己実現」というキーワードまで持ち出して、その当人が従事する業種や職種を細々と問うようになったのは、近代になってからではないでしょうか。私は、「仕事を通じた自己実現」を万人に求める風潮が続く限り、大多数の日本人は幸せになれないと見ています》

《私は、仕事なんて単なるおカネ儲けの手段でしかなくても、ちっとも構わないと思っています。(中略)江戸時代のような「道楽」に価値を見いだす傾向が今の日本に甦れば、少しはまともになると思います》

(『がんばらない生き方』(2009年発行、池田清彦著、中経出版))
 

《土屋賢二さん(哲学者):僕自身、個人的には、働くことには何の意味もないと思っていて(笑)。それは言い過ぎかもしれないけど、労働することに価値があるというのは、比較的新しい考え方なんです。ルターあたりから出てきたキリスト教道徳ですね。それ以前はそんなことはなかったらしいんです。プラトンとかを読んでいると、ギリシャ人の意識として、仕事は食べて行くためにやむをえずやらなきゃいけないことで、人間の価値はそこにあるわけではない。それ以外の部分に人間の価値はある、と。だから仕事をしていない人間のほうが本来の人間の真価が問われる。それをギリシャ語でスコレーと呼びました。日本語では「暇」と訳されるんだけれど、それがスクールとかスカラーの語源になった。何もしないで食っていける人間本来の状態になったときに何をすべきかということで、それが「学問」だ、というふうに考えたんですね》

(『生きてるだけでいいんです。』(2011年発行、香山リカ著、毎日新聞社))
 

《一八七三年[明治六年]の春に長崎に上陸したとき、「労働者」という言葉を、現代の半ば政治的な意味を含めて使う労働者は、この国に一人も存在していなかった》

《一八八0年[明治一三年]ころ、この国に産業主義が急に誕生した。(中略)旅をして甲府の町に着くと、今では製糸がそのもっとも著しい名物となり、少女たちの群れが毎朝五時になると工場に入り、夜の八時までずっと働き続ける-一五時間も続けて働くのである!》

(『日本事物誌1』(1969年発行、BH・チェンバレン(18501935年)著、平凡社))
 

《僕はそもそも働くことに意味なんてなくてもいいと思うんです。とにかく人に迷惑をかけないで、一生懸命働いて、自分が生活できて家族を養えられれば、それだけでとても立派なことなんですよ》

(『反貧困 半生の記』(2009年発行、宇都宮健児著、花伝社))
 

《われわれが働くことをなにより優先し、価値があるように考えてしまうのは、子どものころから言い聞かされてきた、――世の中の役に立つ人間になれ――ということばのせいかもしれません。世の中の役に立つ人間が大事で、世の中の役に立たない人間は存在価値がないと思い込むようになったのです。だから、人は老いればそれだけ役に立つ度合いが減るととらえられ、老人は価値がないと思われるのです。しかし、そもそも「世の中の役に立つ人間」といった考え方はおかしくありませんか?それでは、人間よりも世の中のほうが大事になってしまいます》

《人間を商品化し、働けるか働けないか、世のお役に立つか立たないかで価値づけすれば、老人は価値のなくなった存在ということになります》

《人間が商品化され、人間の価値が商品価値でもって評価される社会においては、老いるということは商品価値の低下を意味します。(中略)換言すれば、老いは「人間のゴミ化」です》

(『仏教に学ぶ老い方・死に方』(2004年発行、ひろさちや著、新潮社))
 

 これは仮定の話だが、ある人の実家が山林を所有していて、そこに温泉が湧いていたり、タケノコなどの食材が採れるなど、金銭的価値のあるものがそこにあれば、その人はもうそれをお金に換えるだけでよく、働くことなんて自分でやらなくてもいいと思う(そんな僥倖はなかなかないが)。要は、生き物として食べることが最低限の死守ラインとしてあって、それをクリアーできれば、働くことすら不要になりうると思うのである。だから、整理をして順に書けば、<食うに困らないなら働かなくてもよい>、<食べていくために必要ならばその分働く>、<その働くことには意味はあってもなくてもどちらでもいい>と今の私は考えている。働くことに、その主人たる人間が振り回されるのは、本末転倒であろう。“働くことは貴いんだ”という呪文・魔法をみんなで互いにかけあって、そう思い込もうとしている人間社会の様子は少々滑稽である。

 
芥川賞作家の田中慎弥さんは、就職もアルバイトもせずにずっと親元で生活してきた方であった。新人賞を取ったときの収入(年収)は50万円だったとのこと。芥川賞の受賞会見の席上、石原慎太郎・東京都知事(当時)に向けた、「都知事閣下と都民各位のために、もらっといてやる」の名言で田中さんは一躍有名になったが、テレビ番組『情熱大陸』(毎日放送、2013120日放映)のなかで、長く世間や仕事に背を向けてきた旨の発言をされていたので、ここで紹介して今日の締めとしたいと思う(次の赤字部分に田中慎弥さんの強い意志を感じます)。

《引き籠もって書いてきたことで、世間から後ろ指指されて嫌われているかもしれないけれど、奴隷にはなっていない

(2月22日記)

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