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2014年1月21日 (火)

人と違うということ(その2)

今日は、場所と時代をガラッと変えて、人と違うということを考えたい。第二次世界大戦時の日本。当時は日本人一丸となって勝利に向かって突き進んでいたと思われがちだが、本を読むなかで、軍人、民間人を問わず、反戦・厭戦思想の持ち主が数多くいたことを知ることができた。日本中がほぼ一枚岩に見えたあの時代にも、“人と違う”人が大勢いたのである。これは私にとって、“人と違っていいんだ”と思う力を与えてくれる強力な援軍になっている。それでは早速、8つほど例を挙げたい。

①『ゲゲゲの人生 わが道を行く』(2010年発行、水木しげる著、NHK出版)

《両親も声高には言わなかったけど、反戦主義者だったようですね。親父は天皇家の写真を部屋に飾ってはいたけど、祝日に日の丸をあげたことはなかったし、母は戦時中も「どうせ負け戦だから」と防空演習を断っていたようです》

②『監察医の涙』(2010年発行、上野正彦著、ポプラ社)

《(中学生の時、父から)「おい、この本読んでみろ」と渡された本があった。それは河合栄治郎の『学生に与う』という本であった。(中略)この本には、国のためではなく、自分自身を大切にしろ、自分を磨き、その一人ひとりが社会を作るんだという個人主義・自由主義の思想が書かれていた。その当時の日本は第二次世界大戦中で、祖国のために生きる、祖国のために自分の命を捧げる、という考え方が当然であった。(中略)(父親は)「お前がもし戦場に行っても、みなの一番最後についていけ」とつけ加えた》

③『元気がなくてもええやんか』(2003年発行、森毅著、青土社)

《戦争中の少年たちが、みんな軍国主義でふるいたっていたわけでもない。ぼくのように、軟弱非国民とののしられながらも、そのようにしか生きられぬ少年もいた》

④『言葉の力』(2012年発行、PHP研究所[編])

中村メイコさん(女優):

《戦争が始まる前、父はユーモア作家として売れっ子でした。モダニズムの旗手などと称されてもいました。ところが戦争が始まり、規制や統制が厳しくなった。愛国主義や戦意高揚を謳った原稿しか掲載されなくなった。反戦主義者だった父は、これを機に断筆宣言したのです。要は、もう仕事はしないというわけです》

《戦争が始まったのが小学校一年のとき。国威高揚のためなのか、「産めよ増やせよ」と国中が騒いでいた。父はそれを下品だと一蹴したそうです》

⑤『はだしのゲン わたしの遺書』(2012年発行、中沢啓治著、朝日学生新聞社)

《おやじが必ず言うことは、「この戦争は絶対にまちがっている。日本は絶対に負ける」ということでした》

《おやじは我が家だけでなく町内でも反戦的なことをふれ回っていましたから、町内会長が「言論をつつしめ」と毎日のように乗りこんできて、おやじとけんかをしていました》

《(姉の学校でモノがなくなったとき)教師の言い分は、「非国民の子どもだから、ぬすみをしたにちがいない」というひどいものでした。「非国民」と言われても、おやじは毅然としていました。抗議は一回でおさまりきらず、何度も学校に行っていました》

⑥『のらくろ一代記 田川水泡自叙伝』(1991年発行、田川水泡・高見澤潤子著、講談社)

《もし敵に出あったとしても、それは人間なのだから、狙って弾を撃てば相手は死んでしまう。そんな人殺しはしたくない。なんて言ってりゃ自分がやられちゃうんだから、敵愾心を燃やせということになるのだが、私には人間に向かって銃を撃つような度胸はない。こんなのを“意気地なし”と軽蔑するなら軽蔑されてもよい》

⑦『怠惰の美学』(
1972年発行、深沢七郎著、日蓺出版)

《オレなんか、もし戦争行かされたら、いきなり白旗かかげるクチだからね。オレは二十歳のとき(昭和九年)徴兵検査で丙種合格でね。戦争中に再検査して丁種になっちゃった。(中略)ほかの人は丁種だなんて、うんと恥ずかしいことだ、と思ってたらしいけど、そのとき、オレはなんて運がいいんだろうと思ったね。(中略)うちのおふくろも「ヒチローは運がいいねえ」と喜んでくれた》

《そんなオレだから、もし戦争行かされたら、白い旗隠して持ってくよ。どうして? だって戦争が嫌いだから。こっちも撃ちたくないし、向こうにも撃たせないためには、白い旗だすのが一番だね。そういう人生観だから、オレなんて、白旗出すの恥ずかしいとはゼーンゼン思っちゃいないよ》

《オレなんかは、丙種から丁種になって、さいわい兵隊に行かなかったけど、当時からオレは戦争なんてバカバカしいと思って、もし行ったとしたら、すぐ白旗揚げようくらいにしか思ってなかったけどね》

⑧『岡本太郎著作集 2 黒い太陽』(1980年発行、岡本太郎著、講談社)

《(戦争で上海に赴任した後)初年兵教育が終わり、多少ゆとりが許されるころ、私は時々士官室によばれるようになった。連隊本部付きの将校、ことに私大出身のインテリ士官たちは、私がずっと永い間ヨーロッパで生活し、つい先ごろ帰って来たということを知っているので、ひそかに個室によび、さまざまの情報を聞きたがったのである。

話しこんでいると、どうしても私の発言の中に、今の戦争について納得できないという気配が自然に流れ出してくる。理念や思想にはふれないとしても、客観情勢から見てまったく勝ち目のない、ばかげた戦争だと思っているのだから。フランスにいたから私の知識は連合国よりであったかもしれないが、すべての状況から判断して、ドイツが東西ヨーロッパ、さらに北アフリカにかけての膨大な地域を押え込み、しかもアメリカまで敵にまわして、勝利するとは絶対に思えないのだ。イタリアの軍事力は問題にならない。軍隊では勝った勝ったと、枢軸国側に有利な報道しかなかった。

しかし私にはそれが空しく響いて、何か逆転しているのだなという直観を得た。もう時間の問題だ。そうすればこの資源に乏しい日本が、孤立して、どうして世界中を敵にして戦うことが出来るか。いずれ日本も……。

「それでは、日本は勝てないのか。」

「勝ちません。」

腹をすえて、私は答えた。将校は一瞬そりかえり、びっくりした顔をして私を見た。それからいかにも憎々しそうに目をすえて、

「じゃあ負けるのか。」

うむ、と押し黙って、それについては私は答えなかった。すでに勝たない、と言いきったことで処刑されるかもしれないのだ。負けるなどという言葉を口に出したが最後、これはもう間違いなく銃殺される》

《(将校たちはこう結論をくだした)「岡本の言うことを聞いていると、一応もっとものようにも聞える。お前は欧州の事情をおれたちよりよく知っているかもしれない。しかしやはりお前の言ってることは間違っておる。それは、『中央公論』とか『改造』に、専門家がみんなこう書いているからだ。ドイツは欧州で勝つ。日本は太平洋・アジアを平定する。そしてついに両者はシベリアにおいて相まみえるであろうと。いいか。専門家がそう言うのだから、お前はやっぱり間違っているのだ。」

私はまったくあきれてしまった。反論する気にもならなかった。このインテリたちは、なんて「すなお」なのか。自分がどう判断するかということは一切なくて、ただ専門家とか、権威的なものだけを信じるのだ。ひどく日本的だと思った。いわゆる専門家などというものをこそ、逆に私は疑いたいのに》

 随分と長くなったが、最後に挙げた岡本太郎さんは、最前線の軍隊で命を賭けてまで自説を口にしている点が、非常に興味深い。極めて異例なことで、ここまでリスクを取ることがいいのかどうか、個別には状況判断が難しいだろう。が、それでもやはり、以上で概観したような埋もれかけた小さな史実を盾にしつつ、私は今の時代にあっても「人と違っていい」と強く思うのである。

(1月21日記)

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